インタビュー記録

1939(昭和14)年7月5日 航空局仙台乗員養成所入所(第4期生)

 陸海軍の委託制度だったが、昭和13年から逓信省が民間航空のパイロットを養成する事になった。4期は仙台25人、米子25人が同期。95式3型練習機、95式1型練習機。
 8月23日、単独飛行。大きな声で歌を歌って飛んだ。もの凄く嬉しかった。2等操縦士のライセンス、を取得、1355号。

1940(昭和15)年4月 熊谷陸軍飛行学校に下士官候補者として入学

 2等航空士のライセンスを取ると軍務につかないといけない。
 内緒で郷土訪問旅行もやった。

同年10月5日 熊谷陸軍飛行学校卒業 伍長に

同年11月 航空局米子乗員養成所専修科入所

95式1型練習機、90式機上作業練習機

1941(昭和16)年3月27日 航空局米子乗員養成所専修科卒業

同年4月 航空局松戸中央乗員養成所入所(2期生)

 40人が入所、新井さんたち半数は大型機、残りの半数は地方の養成所の教官要員
 93式双発軽爆撃機、機体が強度を持たせるため波打っているので“ブリキの湯たんぽ”と言った。97式双発輸送機、1式双発輸送機などで訓練した。

 同年12月30日 航空局松戸中央乗員養成所卒業、応召

 1等操縦士のライセンス858番、ここを卒業すると日本航空や満州航空に就職出来る
 卒業すると家には帰らず、そのまま19人まとめて挺進飛行戦隊へ応召。太平洋戦争開戦時からこれは来るだろうなと思っていた。諦めの気持ち。自負もある。

1942(昭和17)年1月1日 挺進飛行戦隊

 宮崎新田原飛行場から唐瀬原まで8人ほどの降下要員を乗せて運び落下訓練、降ろすと次の8人を迎えに行くピストン輸送を繰り返した。

1943(昭和18)年7月6日 クラークフィールド、メダンへ転進

 ニューギニアの米軍飛行場占領を目指し(天号作戦)、新田原→フィリピン・クラークフィールド→スマトラ・メダンへ進出したが、戦況が悪く作戦中止に
 輸送機を持っていたのでマラリアのキニーネの輸送や、ビルマで負傷した将校クラスをシンガポールへ輸送したり。MC輸送機は無着陸で3000キロ飛べるという性能があり、1600キロぐらいは実際にやっていた。

1944(昭和19)年9月~ タ弾などの九州からマニラへの輸送

・同年9月20日
 6機編隊でタ弾の輸送時、左エンジンから潤滑油漏れをはじめこのままでは焼き付いて仕舞う。台湾東海岸の宜蘭(ぎらん)飛行場に不時着。残りの5機がマニラに向かったが、米軍機動部隊の空襲した日にあたり、サンフェルナンドでグラマンに全部撃墜された。輸送機は武器は持っていないので火だるまになって赤子がひねり殺される様なもの。

・同年10月
 台湾沖航空戦前日、台北から内地への帰りエンジンの調子が悪いので沖縄を回ることにした。
 沖縄が延々と燃えている。伊江島に海面すれすれに飛んで蛇行して着陸。内地に帰る偉い兵隊が沢山便乗している。止まった瞬間に機体から離れた。グラマンの3機編隊で機銃掃射、一発で機体は炎上した。
 松林の中に逃げたら、首のない若いお母さんが血だらけで倒れていて、赤ちゃんがおっぱいにすがって泣いていた。そういう時は敵愾心、この野郎と思って、そのへんに戦闘機があったら上がって叩き落としてやろうと思った。

1944(昭和19)年11月13日 飛行第98戦隊へ転属

 台湾沖航空戦で98戦隊が壊滅的になっていたので、再編成要員として転属になった。台湾沖航空戦では、雷撃は高度30mで魚雷を発射する、低空で飛ぶと燃料を食う、これの計算が足りず燃料切れで不時着した者が多かった。ほぼ全滅した部隊への転属で、これはとうとうヤキが回ってきたなと思った。

 夜間雷撃の訓練。夜間飛行が出来るようになるのに飛行時間千時間ぐらいは必要。別府湾の鳳翔(一番古い航空母艦)を標的に模擬魚雷を抱いて訓練。夜間2~3時間訓練し、燃料補給してその後7時間ほど海軍を乗せ野外航法。
 夜行って誰か一人魚雷が当たると火が出る。弾幕の中に入ると右か左か分からないような飛び方をする。その中で誰かが当たると自分が当てたような感じになっちゃうことがある。皆そういう報告をすると戦果が何倍にもなってしまう。
 台湾沖航空戦の戦果が当初過剰だったのはそんなこともあるのか?

1945(昭和20)年3月18日 九州沖航空戦

・同年5~6月 沖縄攻撃
 夜間乗れる人間が少ないので、帰ってこい、帰ってこいと急かされる。
 飛行時間が長かったので編隊長機となったのが生き残った理由の一つ。
 5月27日は海軍記念日で4機の編隊長機、僚機は30mの低高度で雷撃、長機だけ4~5千mで照明弾を落とす。集中砲火はやられる。銀紙を積んで、銀紙を撒く係がいる。第1弾はかなり正確にぐらっとするほど近くに来るが、夜間でだましっこ。段々銀紙を狙って弾道が遠くにずれていく。編隊の火を噴いた飛行機は高度が低いので海面をトントントントンと滑っていく。
 この日自分はアメーバー赤痢で40度の熱があり軍医に無理だからやめろと言われて中隊長に言いに行った。そうすると「貴様、臆病、死ぬのが嫌になったか」と怒鳴りつけられた。腹がたって「この野郎、士官学校出だと思って人を馬鹿にして、構わない行ってやろう、今日死んでも構わないから行ってやろう」と思った。民間出身の予備下士官は軍人精神がないと馬鹿にされる傾向があった。腕はいい。中隊長はそんな感じだった。
 毎日艦載機が爆撃にくるので赤江や大刀洗飛行場は使えなくなり、島根県新川飛行場に移動し、6月はそこから2回ほど沖縄に出かけた。


・同年7月
 高性能の電探の試作器で、編隊でいかなくても単機で船を見つけて雷撃するものが作られ、この兵隊を乗せて彼らの訓練、実用化はされなかった

 雷撃というのは恐ろしい戦法。魚雷を発射するのは800mから1000mぐらいの距離が適当と言われている。遠いと届かないし近すぎると船の下を通ってしまう。発射は爆弾とは違って正操縦士が行うようになっている。魚雷が1トン70もあるから落とすと軽くなって機体が浮くのが分かる。その瞬間に急旋回してマストをかすめるが船の上の人影が見えるし、そこでやられる者も多い。夜とは言っても排気管の灯りが見える。

 離陸するたびに今度は死ぬかもしれないと覚悟した。離陸する時にここには帰らないかもしれないと覚悟をしなければいけない。繰り返し繰り返しだから狂ってしまう奴がいる。ウイスキーの配給が多いのでアル中になってしまったのがいた。
 敗戦後進駐軍がきて日本軍のパイロットを米軍が引き揚げてという噂が流れたとき、そんなことになったら腕をぶった切って二度と操縦桿を握るまいと思った。それぐらい恐ろしい。今夜自分がこの作戦で死ぬかもしれないというのは恐ろしい経験。それは1年間ぐらい。だから戦後民間に戻るのが遅れた。
 カンテラ坊主は羨ましい。彼らは死ぬことがない。

 死なないで帰ってきたのは良い気持ち、どうだざまあみろ帰って来ただろう。おばあちゃんがお百度参りをしてお守りを送ってくれる。お守りをいっぱいぶらさげる。祖国、故郷、天皇陛下と考えないこともないけど、兄弟が3人いたし、親がいたし、おばあちゃんがいたし、おれが守ってやらなければとそういうところから来ている。死ぬときは理屈をつけなければ死ねない。

同年8月15日 大刀洗飛行場で敗戦、児玉基地(埼玉)に移る


 まだ負けたんじゃないという連中が「これからやるんだ」とビラ撒きをしてこいとガリ版刷りのビラを各基地に撒いていた。厚木の海軍航空隊の連中が児玉に集まってきて、持ってきた飛行機は練習機、八幡大菩薩という幟なんかを立てている。
 飛行時間なんか大して乗っていない連中だ。米軍の機動部隊が来たらどうにもなりはしない。でも24日頃、児玉から八丈辺りまで魚雷を抱いて索敵、船が来たら私だってやっちゃったかもしれない。
 まだ負けていないという連中がいっぱいいいた、軍隊だからね。私は民間だからもう駄目だなと思っていた。そしたら米軍が来てプロペラを外していって皆何となく諦めた。

同年8月28日 復員

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