インタビュー記録

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本当に戦争が来るとは感じていなかった

1944年8月22日、お兄さんの子ども(私の甥)は、乗っていた疎開船・対馬丸が沈んで、亡くなっていました。

1945年、正月を迎え「九州に疎開しなさい」などと、いろいろありましたが、私達の家では応じることが出来なかった。対馬丸に乗っていて亡くなった甥は、国民学校の4年生でした。この子を亡くしていたので、船に乗って行く勇気がなかった。命の保証がないから行くことが出来ないということで、主人の実家、屋宜原【やぎはら、現八重瀬町 地図1】におりました。本当に戦争が来るとは感じてなかったです。まさかということです。

1945年3月23日、「空襲警報発令!」と同時にババンバンバン、ババンバンバンと砲弾の音が聞こえて来た。 防空壕に避難したらもう、家に帰れません。以前那覇の家に投宿していた村上准尉が、我々の防空壕に訪ねてきました。「米軍は港川から上陸して来ると言われている。ここにおったらまずいでしょう。危ないから私たちが送ってあげますので、北の方へ移動してください」。3月25日、小型の軍用トラックに乗せられて夜道を行きました。

喜舎場【北中城村 地図2】まで、およそ25キロありました。自分の実家の所に降ろしてもらい、実家の墓の中に移動しました。私たちは「ああ、よかった。墓の中に入れて大丈夫だ」というような安心感に、ほんのわずか浸りました。けど翌日から爆弾が周辺に落ち、爆風が勢いよくバーンと入って、子供たちが怖い、耳が痛いと泣くんです。

1945(昭和20)年4月1日
アメリカ軍が4キロの距離の北谷(ちゃたん)から上陸して来た

山から下りて家で炊き出しをしてました。姉さんと私の母が、アメリカが北谷まで来たから、1時間か2時間で来ると思ったんでしょう。「さあ、逃げよう。逃げよう。」と言って、何も食べないまま、子どもたちを連れて出ました。私は娘のカズ子ちゃん(7か月半)をおんぶして、右手には長男の宣秀(4歳半)の手を引き、父と母は年寄りだから杖をついて逃げたわけです。

13人がゾロゾロゾロゾロ歩いて、夜道を逃げました。これからは誰も助けてくれません。
首里まで12キロ歩きました。どこに逃げて良いか分かりません。首里には、たくさんの人間が集まっているわけです。どこに行くか分からない。右往左往している時、一人のおばさんが、西の森の壕【地図3】を教えてくれた。

このガマの入り口で私たちに情報提供したのは私の弟です。「師範学校の勤皇隊、千早隊の安里です。情報班です。」と挨拶をして、「私たちは、皆さんに情報の提供に参りました。私たちは敵の上陸をゆるしてしまいました。でも、4月29日(昭和天皇誕生日)、絶対に取り返すことにします。4月29日までは体に用心して生き続けるように子どもたちを守ってください。」という言葉だったんです。弟の声に似ていると声をかけて、抱き合って泣いたんですね。

砲弾の音が近づいてきて「那覇へ行こう。那覇は様子が分かるから。防空壕も探せる」と言って那覇【地図4】へ行きました。4月9日ここに来て、約3週間滞在して居りました。祖母が持って居た食料はあんまりないけれども、あちらこちらの廃屋から、壊れた家から、放り投げて皆逃げてしまった家などがいっぱいありますから、もう泥棒とは言えないでしょう、と。食料も無いから、ここから逃げようと、また、決断しました。

あてのないまま南へ逃げる

4月末に、再び屋宜原に戻ったことになります【地図5】。行かなければよかったのにと、ここに来て後悔しました。
これからは、絶対逃げないと思っていたら、間違いでした。隣りの人たちが、みな話し合いをしまして、「ここから逃げて行くから、私たち行きますよ」という挨拶が聞こえたので、みんなが逃げる所へ逃げなくてはいけないと思って。6月1日に、敵が首里をダメにして皆逃げて来るとい.う情報で、アメリカ兵も日本兵もここに来るから、彼らが来ないうちに逃げようと言って、予測もしないのによ、夕べまで何の話もしないのによ、周囲の情報で私達は逃げた。

6月6日、真栄平まで来ました【現糸満市、地図6】。大変です。何も食べていません。あちらこちら知り合いを訪ねて「助けて下さい」と行きましたけれど、助けるどころではない。みんな逃げ惑っているんだから。
路上にあふれている避難民、死者、負傷者、呼び合っている家族、親、子ども、子どもが親をさがしている。そのような状況の中で我々家族がバラバラにならないように、村の中の防空壕をたよりに入って行こうとしました。でも私達を入れてくれる防空壕なんてありませんでした。みんな自分たちの家族が入っていて、他の人たちは、一人もそこに避難できるような余裕はないのです。

家族の死

身にせまった恐ろしい砲弾の音!ババーンバシャ!ババーンバシャ!迫撃砲の集中攻撃という、100発も止まないという、ものすごい攻撃に合いました。来たぞ―来たぞ―と思っていたら、私はカズ子ちゃんの上にかぶさって、何となく叫びたくなった。「1発に!」 「1撃に!1撃に!・・・」 生半かな怪我を負わないで一気に死にたい・・・。
兄さんの奥さんの初子お姉さんに破片が命中したのは、胸の中でした。心臓です。それで、初子お姉さんは1発で即死です。 たくさんの人が南の方へ逃げて行く。我々も南の方へ逃げれば安全だというように、何も言わないで、無口で、本当に、怖いから皆急いで・・・。

家族17人が真壁という村に入りました【地図7】。「真壁には井戸があるんだってよ」。皆にたくさんのお水を与えました。それから、ここが大変な所だという事を知りました。ここには、時間的に集中攻撃するアメリカ兵が、水汲みに来た沖縄の県民や日本兵を狙って、ババーン、ババーンと射撃して来るのです。8日の朝、私の母が撃たれました。母は私の息子の手を引いて、水を汲んでいました。右足の膝関節からもぎとられて出血多量で亡くなりました。
次に、私の夫のお母さんが、翌日亡くなるの。一諸に行動しなければいけないと思っていたのに、夫のお母さんは砲弾のカケラが体に入って死ぬんです。火花が散ったんです。真昼間だけど、ピカピカッとひかる物がある。それがサトウキビ畑だったものだから、サトウキビの葉っぱがもげて、夫の母は逃げ遅れた。母はもがいて、みるみるうちに下に沈んで行くのが分かりました。大きい声で「おばあちゃん!早く早く!」って言ったのに、火に足をとられてもがいて倒れていた。私と、夫の姉さん、2人は、両手に子どもを抱えて、2mもある土手の上に子どもを放り上げて・・・1人、2人と投げてから、這い登って、また両脇にかかえて避難した。
そしたら、「おじいちゃんが着いて来てない」と言う。おじいちゃん毎日毎日、嫁を亡くし、私の母を亡くし、自分の妻を亡くし、大変疲れていたと思います。「僕はもういいよー」と言う声を最後に聞きました。

カズ子ちゃん(7ヶ月半)が、轟(とどろき)の壕で亡くなる

「伊敷という村の前に大きな口を開けた轟(とどろき)の壕があるから行ってみなさい」と聞きました。日本軍の壕に入れてもらおうとして、壕の名前は分かりません、「兵隊さん、お願いします。子どもだけでも、壕の中に避難させて下さい」とお願いしたら、「何を言うか、馬鹿野郎!」と言われました。「馬鹿野郎、君達がここに追いついて来ているから、戦争がこのような形になっているんだぞ!そこに立つと電波探知機に知られて、集中攻撃くらうよ。回れ右して帰れ!」って、長靴はいてましたから、将校だと思いますよ。悲しかったですね。戦争が始まる前、守備隊として来た時には、良くしてくれたのに。私達も兵隊をたよりにしていました。

言われたとおりに轟の壕を見つけました。ここで命がもらえると思ったのは間違いでした。食料は米一合も持っていません。ここには何もありません。時間が経ったら子どもたちの物ねだりが始まり「母ちゃん、水が飲みたい、まんまが食べたい、外に出たい、こわい!」暗いから怖いです。「我慢してね、戦争が終わるから、終わったらやってあげるよ」と毎日ウソばっかり言って子ども達をなだめていました。「ね、いつ終わるの?」「もうすぐ、そしたら、たくさんご馳走あげるから、ガマンしよう」。私は、カズ子ちゃんに離乳食あげた事がない。

毎日のように弱い泣き声があちこちで聞こえる。そしたら、1人の兵隊が横穴から出てきました。ガチャガチャと鉄砲を持って・・・鉄砲の先に剣を付けています。光に反射しています。「沖縄の皆さん、子ども達を泣かすな。子どもを泣かすと、殺すぞ!殺してやるぞ!」だから、どこのお母さんも子ども泣かないように必死になる。
おにぎり1回食べた。生エンドウ食べた・・・と2週間たつうちに16日は漆黒の闇になりました。ヤミの中でカズ子ちゃんに異変が起きます。2~3日目から、オッパイ吸えなくなっていたんです。口までもっていっても吸う力がない。スッと離しちゃう。暗いから見えない。呼吸が止まっている。息をしてない。夫と姉さんと3人で一生懸命、体を撫で回して体温を作ろうとしたが、カズ子ちゃん、とうとう6月16日の夜中、あの世に・・・・悲しい話です。これはね、今まで、大きい声で話せなかった(涙を拭う)でもこれを語らなければ、証言にならないから(涙声)。自分の子どもをね・・・。カズ子ちゃんを亡くし、いつまでも抱きしめておきたい。自分もそのうち死ぬであろうと思っていました。口では言わないけれど、みんな死を覚悟していました。

カズ子ちゃんが死臭を放つようになると、迷惑をかけるから、葬ってあげようということになった。抱きしめておきたいと思ったけれど、乾燥芋のように軽くなったのを右手にだっこして、左手で壁をつたいながら、奥の方へ人間のいない、声のしない所に連れて行ってカズ子ちゃんを寝かして溜まり水をかけて。穴を掘るんじゃないんですよ、お別れをして・・・ごめんなさい、ごめんなさい・・・あなたを産んで、10月10日から戦争になって、あなたを生かす事が出来なかった。ごめんね。母ちゃんもそのうち行くから、恐がらないで、寂しがらないでとひざまずいて、お別れをして誓いました(どっと涙があふれてハンカチを当てる)。
本当にね。こんなに65年経ってもね。あの日の様子が目の前にありありと見える。カズ子ちゃんを寝かして、子どものいる所に出てきたら、子ども達の物ねだりが始まって、「我慢して。戦争が終わったらいっぱいあげるから」とウソをつきました。

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