インタビュー記録


1944(昭和19)年9月1日 東部63部隊に入営 現役

 9月8日下関に着き、釜山、浦口、揚子江、南京、安慶を経て10月18日に九江。初年兵教育は九江野戦補充教育隊で80名くらい。厳しい教育だった。
 ある日空襲警報が出て、人間はすぐに避難をしたが、武器を置いてきてしまった。そのとき、部隊全員が天秤棒で尻を叩かれた。紫色になって、かがむこともできなかった。
 訓練で一番苦労したのは、記憶力がなくて軍人勅諭の暗記が大変だった。文章がなかなか覚えられなくて大変だった。自分ひとりでやると大変なので、戦友と暗記ごっこをして、覚えていった。軍人勅諭の記憶に関しては、個人責任。覚えられない人がいても、部隊全員が責任を負わせられることはない。
 関東軍にいた人たちが、教育の世話をしてくれた。教官補助みたいなもの。九州の熊本の人たちが見てくれたので、九州弁がよく分からなくて最初戸惑った。19-20歳の私たちを37-8歳の兵士が面倒を見てくれた。
 2週間くらい蒋介石の別荘の警備をしていた。翌年2月16日本隊追及の命令が出て、2月の猛吹雪のなか作戦が始まった。そのとき携帯食料「甲」「乙」が支給される。「甲」は玄米、牛肉、5合くらい入っている。乙は乾パンが入っている。袋3つ入っているところどころに金平糖が入っている。携帯食料は命令がないと本当は食べていけないのだが、食料の支給がないので、部隊全員が手をつけざるをえなかった。

1945(昭和20)年2月~7月 本隊追及の行軍

 九江から武昌、長沙、衝陽、楽昌までの約3千キロを4ヶ月余りの長くて厳しい行軍が続いた。たくさん死んだ。
 長い行軍で食料の補給は武昌と長沙だけ。食料交換用の食塩は貴重で、農家に行って米をもらった。それもなくなった。そうすると徴発しかない。最初なんかは「こんにちは」なんて入っていったけど、そのうち慣れて荒っぽくなってくる。それにまだ塩があるときは、かっぱらう訳じゃないからと思ったけど。
 そのうち家のどこに食料があるか分かってくる。最初は10のうち7持っていったけど、10のうち10を持っていくようになった。農家にいくと、纏足の老婆と3、4歳の幼い子が手を合わせて命乞いしていた。皆逃げ惑って、命乞いする姿は哀れだった。

 クーリー(労務者)も徴発した。野良で働いている農夫を捕まえて、宿営地で監禁する。日本軍がいると聞くと、そういう人の家族が探しにくる。「会わせてくれ」「帰してくれ」と紙に書いて訴える。漢字なので察しがつく。クーリーは帰りたいだろうが、100キロも行軍するともう家には帰れない。監視がなくなっても逃亡しなくなる。土地勘もないし、日本軍の後ろを匪賊が追ってくるのを知っている。自分についたクーリーに「ライオン」と「桃太郎」と名前をつけていた。
 背嚢にぶら下げている手榴弾が原因で死んだ戦友もいる。背嚢で運んでいる時に、手榴弾の冠がむき出しになって、何かにひっかかって起き上がったら爆発して死んでしまった。それ以来、ほかの兵士は、自分のやつをしっかりぼろをまいて、縛るようになる。
 厳しい行軍で、水も悪くて下痢をする。初年兵はバタバタと死んでいく。弾にあたって死ぬならまだいいけど、栄養失調で。10人の中で1人でもなると、みんなで荷物を分けて歩かせるが、2-3日で駄目になる。病院もないから駄目。クリークがずっと道端に続いている。だんだん、その人のものを分担すると体力も消耗して、それで倒れることもある。3人ほど投げ込んだ。置いておくと余計かわいそう。共産軍が後を追っているから、投げ込むしかない。自動車部隊と会えば、預けることができるが、何もないところではそうなってしまう。本当に頼るのは本人の体だけだから。水かけて励ましたって、目を開けず、呼吸を何とかしているだけなので、クリークに「水葬」するしかない。つらい。

 行軍中の隊列は、路上斥候がいて、その次に先兵がいる、後ろに本隊。3人くらいが路上斥候、先兵が10名くらいで行動。落伍しないために、初年兵は先兵に着かされたことがあった(6月10日頃)。ところが、銃が撃たれて、戦闘経験も少なく大変。本隊は退却命令が出される。クーリーが逃げて、兵士も逃げる。運がいいのか道路を作るローラーがあって体を隠した。遠いと銃声は「ぴゅーん、ぴゅーん」だが、至近弾は「びゅんびゅん」くる。大八車を担いで、後退した本隊へ合流。「お前の同年兵が帰っていない。見て来い」といわれた。匍匐前進して進むと、道路に同年兵がいた。倒れた兵士は半裸。服や靴が盗られていた。口には石をつめられて、穴という穴に棒を突っ込まれて、人の姿をしていない。酷いものだ。お尻がない兵士もいた。部隊が来るまで待っていろと言って横道に入って、小高い丘にあがった。本隊はいつ来るかと思っていた。20-30分くらいだとおもうが、本隊と合流できた。
 本隊が「藤原の死体がない」と叫んでいる。丘を下りて合流した。先ほどの戦友たちはすべてこと切れていた。8人の初年兵が亡くなった。大八車1台に3人くらい乗せて、移動。同年兵だから衛兵をやれと言われて、死体を見張っていた。後にも先にも戦闘はこれ1回だけ。

 行軍中に戦況は悪化して重慶作戦が放棄されて、本隊は解散してしまった。第131師団独立歩兵第596部隊に転属して(5月10日頃)、楽昌で警備につく。

1945(昭和20)年7月20日頃~10月半ば 粛清作戦

 重慶作戦は見送られた後、私たちは「粛清作戦」と言っていっせいに退却した。「粛清」なんていい言葉、要は前線が退却したの。その途中で終戦の詔書を知った。引き上げ行軍になった。鉄兜もかぶらず銃もだらしなく担いた日本の敗残兵が行くと、蒋介石の統治下だったし小競り合いはなかったけど、中国の子供が「チャンコロ、チャンコロ」って言ってくる。きっと日本語で「弱い」とかそういう意味だと思ったんでしょう。
 自分が知っていた2人のクーリーは、日本が負け戦になって、日本軍と一緒にいけば自分の故郷に近づけるから一緒に行きたいと言ってきた。自分の故郷に近づいたとき、朝の3時半くらいでまだ暗い時分に起こされて、挨拶をしてくれた(9月20日頃)。自分のいた部隊はクーリーに随分助けられた。
 引き上げ行軍中に倒れた(8月31日)。クーリーが自分の分の荷物をかついでくれたが、本隊からは置いていかれて周囲は真っ暗になって、もうだめだなと思った。でもクーリーは介抱してくれて、「シーさん、シーさん、行こう行こう」と励ましてくれた。あのクーリーに救われていま私は生きているわけです。彼がいなかったら私は20歳であそこで死んでいた。どうして名前を聞かなかったのか。戦後、クーリーたちは日本に協力したということで随分ひどい目に会わされたようだ。

 8月15日近辺は訓練をしていた。行軍中に重大な発表があると命令はあった。玉音放送ではなくて、口頭で無条件降伏したと聞いた。ただし、中国で戦闘を続けるかどうかよく分からなかった。デマがいろいろ飛んで、南方がやられたが中国はまだ大丈夫とうわさになった。捕虜になって、引き上げの話題、いつ帰れるかが一番の話題になった。船がいつ着くかも全然分からない。

1945(昭和13)年10月15日頃 安慶捕虜集中営に収容

 私たちの部隊はどういうわけか武装解除がなかなかでなかった(武装解除は翌年3月15日)。安慶で政府軍の捕虜になったが、食事も1日3食十分にくれた。現地では1日2食だから優遇されていた。仕事も大してない。揚子江でモッコを使って土を運んだ程度。政府軍は八路軍と「どんぱち」やるから日本軍の力を借りようという話だったようだ。

1946(昭和21)年3月21日 佐世保に復員

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