インタビュー記録

1932(昭和7)年 現役入営 騎兵第16連隊(習志野)

 都会育ち、馬など触ったこともなく怖かったが、裸馬で3ヶ月ぐらい無理矢理練習させられる。お尻の皮も剥けてしまうがこれで上達、中隊の馬術大会で賞を取るほどになった。

1934(昭和9)年  満期除隊

 会社は軍需工場に性格を変えていく時代、明電舎に入社して防空関係の仕事などをしていた。

1941(昭和16)年10月6日 臨時召集 独立自動車42大隊に入隊(世田谷三宿)

 部隊本部付き。
 12月頃東京湾を出発して、仏領印度支那・ハイフォンに上陸。タイのバンコクまで来て太平洋戦争が開戦した。
 タイ南部のシンゴラで激戦があり、マレー半島を南下、ペナン島を占領、クアラルンプールに入り、ゲバスで激戦後、ジョホールバルからシンガポールへ。
 最前線に弾薬や物資の運搬を繰り返す。
 自動車部隊なのに、召集時はまるで自動車の運転は出来なかった。運転が出来るのは部隊の1割そこそこで、三宿から東京港まで部隊を運ぶときは彼らがピストン輸送した。
 仏領印度支那で少しいじくり、バンコクのルンビニー公園を占領してそこで練習した。そこで牛や山羊に車をぶつけながら練習をした。
 その後シンガポールに1年ほど滞在する

1943(昭和18)年 パラオへ

 ジャワからオーストラリアを目指して船団を組み出航したが、第1船団は魚雷の被害が大きかったので、第2船団の我々は急遽パラオへ上がることとなった。

1944(昭和19)年3月 米機の大空襲が始まる。パラオ本島へ

 パラオ本島はパラオ諸島のペリリュー島などとは違って、空爆だけで米軍が上陸しなかったので生き残ることが出来た。
 それでも爆撃で九死に一生を得る体験を3度ほどした。

 1度目は、防空壕に逃げ込んだが、近くにドラム缶が集めてあるのを忘れていた。爆撃はそこを狙い、ドラム缶がどんどん爆発を始める。防空壕から飛び出すか中で死ぬか9分9厘駄目だと思ったが、一か八か飛び出したところ撃たれたが当たらなかった。

 2回目はコロール島から本島への移動の小船が狙われた。漁師の乗るようなポンポン船で、装備を持っていると何人も乗れない。いつも爆撃は午前中だったので大丈夫だったと思って5~6人で渡っていたら、その日は午後から2回目の爆撃。水路の真ん中でバリバリやられ逃げようがない。船の下に潜って頭だけ出していたら、運良く船には当たったのに、船の廻りの皆には当たらなかった。

 3回目は本島で、帰りの爆撃機に狙われた。普段はここまで来ないと何となく皆のんびりしていたら、“キーン”という音。近い飛行機は“ブンブン”とか言わない。今日は音がおかしいなと言ってる内に大きな爆弾が落ちてきた。慌てて土手にへばりついた。へばりついた隣の兵隊が「お母さ~ん」と言っている。運良く近くに沼地があり爆弾はそこに落ちてあまり開かなかったので、亡くなったのは3名ほど。血は出さないけど、四つん這いになり、腹の臓物は全部出してしまっている。腸を中に仕舞ってタオルで縛り土に埋めた。

1944年末~1945年  空爆に代わり飢餓に苦しめられる

 ジャングルに野営。文字通り「草を食み泥水をすする」生活だった。
 マラリア、チフスと病気も蔓延した。上流から垂れ流しで汚物が流れてくる。下は知らずに飲んだり顔を洗ったり。川は一本しかないのでそれを飲むため伝染病は川の流れに沿って広がった。医薬品がないのでバタバタやられちゃう。私も全部に罹患したが、班長を殺すなと命令が出て誰も食べ物を持ってこなかったので助かった。食べたものは死んだ。栄養が無く水だけ飲んでいると菌も生きていけない。菌が死ぬか人が死ぬかだが。
 
 当初はヤシやバナナなどを取っていたがそれは無くなり、ビンロジュという木を3人がかりで倒して、先端の僅か数センチの食べられる柔らかい部分を食べた。それを3人で分けなければならない。ビンロジュは探して廻った。アクの強い芋類があって、現地人もそのままでは食べない。粉にして水にさらして1晩待てば食べられると言うが、これをそのまま食べると危ないと分かっていても待てずに食べて死ぬ者もいた。蛇も2~3回は食べたが蛇もそんなにはいなかった。 人肉は食べなかったが、倒れた兵隊の屍から衣類や靴は奪い合った。靴はボロボロ、片方は履いて片方は裸足という者が多い。死んだらあれは俺のだよという奪い合いは常時散々やった。靴とシャツは特にそう。

 炊事班長のとき、騎兵時代からの戦友が病気で足を引きずりながらやってきて食べ物をねだられた。「食べたら死ぬぞ」と言ったが「死んでもいいからくれ」と言う。二つ三つ乾パンを横流ししたところ、食べながら帰っていって、翌日彼は亡くなった。自分が殺したような気がしたり、一方でどうせ死ぬならもっと沢山やればよかったと思ったりした。

 戦争なんてもんじゃない。とにかく生きていけば良いという感じ。一日でも早く終戦になることばかり待ち望んでいた。

1945(昭和20)年8月15日

 敗戦の2日前から爆撃が止まった。おかしいなと思っているうちに敗戦。  
 後2~3ヶ月は生きられなかったと思う。  
 1946(昭和21)年2月28日 浦賀に復員。  
 部隊で戻ったのは半分ぐらい。

Copyright(c) 2012 JVVAP. All Rights Reserved.