インタビュー記録


1940(昭和15)年 徴兵検査

1943(昭和18)年8月1日 召集、同年12月末 南方に動員令

 東本願寺でお参り、面会人が来ると困ると列車を京都駅から出さず5条辺りまで歩き汽車に乗る。大阪・筑港から三池丸に乗船。

1944(昭和19)年1月17日頃 シンガポールへ

 バナナを売りに来る、タバコ1個で1房20本ぐらい。
 クアラルンプールへ 1ヶ月の訓練、綺麗な街だが、靴にサソリが入っている。
 泰面国境の手前で仕事の知り合いに会い、「ビルマに行くらしい」と言ったら「ビルマに行ったら帰って来られないよ、形見を置いていけ」と言われたのでシンガポールで勝ったワニ皮の財布を渡した。
 切り立った崖とヤシの木の上に両輪をそれぞれ置いた鉄道でビルマへ

同年5月 ホピンの戦闘

 インパール作戦に参加するかと思っていたが、菊兵団(18師団)が全滅しそうだから救援にと行き先が中国国境に変わった。
 ホピンの戦闘、大砲だ、迫撃砲だ、何だとガンガンガンガン鳴りっぱなし。砲兵隊の中尉がおかしくなって木の上に登って「上等兵殿、飯盒を洗います」と言っている。
 有線無線で電話線を引けと言われたら、迫撃砲が凄く飛んでくる。馬の後ろ足にしがみついていたら反対の足に当たって仕舞った。歩いていったら英語が聞こえてくる、敵の陣地に行ってしまったと思って朝になったら日本軍、神経がおかしくなって英語に聞こえて仕舞う。勝ち戦で捕虜が大量に出た。英国人が3人捕虜になったが、志願兵が竹の筒を口に入れ水をどんどん飲ませて殺した。
 英軍は縦列を組んでいるが前10列ほどは黒人やカチン族、白人はその後ろから来る。
 現地人は雇われ者だから殺すのは白人だけで良いという感じだが、位の高い現地人は殺す。あるいはずらっと並ばせて殺す。軍刀で捕虜を切れと言われても慣れていないから自分の足を切りそうになる。銃剣で突くしかない。初年兵に尽かせると手前で止まるのを後ろから突き飛ばして殺させる。勝ち戦は勝った勝ったという気持ちばかりで人を殺しても何とも思わない。悲壮な思いではあったけど、無我夢中。

 高地で大変寒いところで、雨季でもあり、冬服を取りに一端下がり往復する。

同年8月

 最前線に戻りフーコン、キュゴン、マラリアを媒介する大きな蚊がブンブン飛んでいる。40度ほどの発熱をするがキニーネを打って貰い3日ほどで快方に。転進命令が出てマラリア患者を残したところ、部隊長が烈火の如く怒って「捕虜にさせるつもりか、殺して来い」一人が戻って6名を射殺してきた。I兵長が銃剣を掴んで「結婚してきたから頼むから連れて帰ってくれ」と言ったが射殺したと言っていた。
 10数人ずつバラバラでの撤退(トングーで集結の約束)、河の水は闇夜でも光るのでイラワジ河の流れを目安に下がるが、1週間経ったら同じところに戻って来たこともあった。ジャングルの中を歩いていれば戦車は来ない。ジャングルでも土人の家はあるのでバナナをかっぱらったりしていた。ジャングルの山道を今でもはっきり覚えている。死んでいく者は出血で死ぬので「寒いよ、寒いよ」と言って死んでいく。
 日本人が使っているビルマ人スパイに日本人の様な者が居た。聞いたら、2.26の下士官でした。戸籍はないんです。これ以上聞かないで下さい。と言われた。
 インパール作戦の3師団を吸収するために撤退途中で再度戻り、イラワジ河畔で待機となる。水牛を撃ったり、バナナの皮を食べる。水牛は3日ほど煮ないと固くて食べられない。
 5月~10月は雨季、鉄砲も使えなくなる。伝書鳩を連れていたが、武器と同じなので食べたら軍法会議だと言われ食べられないが、居たら食べてしまいそうなので逃がしてもずっと頭の上を待っている。宣撫用に阿片を持っていて、これをちょっと渡すと牛1頭でも持ってくるが、夜その牛を取り返しに来るので殺してしまう。現地人はどれだけ殺したか分からない。宣撫用に阿片を混ぜたタバコもあり吸わないように言われていた。山岳部には大麻も沢山自生していた。
 遺体はハゲタカが洋服を剥いで内臓をつつく。そこに蛆虫が湧き1ヶ月で白骨になる。どこで死んだか分からない戦友は多い。朝起きたら周りが皆死んでいる事も。

同年11月3日 マンダレーまで秘密書類を持って下がるよう命令

 同年11月3日 自分ともう1名にマンダレーまで秘密書類を持って下がるよう命令があった。
 H兵長が、先に殺されたIがお出でお出でをしていると言う。そんなこと言ったってしょうがないと軍票を渡すが会ったのはこれが最後。
 糧秣は持つなと言われジャングルの中をカラスや蛇を食べて進む、カラスは羽根をむしっても腹が黒い。

同年12月27日 マンダレーの軍司令部到着

 師団がほぼ全滅したことを聞く。
 生き残りがイラワジ河を筏で下ってくるらしいので待てと。

1945(昭和20)年1月3日 マンダレーでの戦闘

 野砲の観測所に電線を引くため山に上がったら(無線を使うとすぐに敵機が飛んできて仕舞う)、「イラワジ河を戦車が泳いでいる」と言う。水陸両用車だった。道をふさいだ丸太ぐらいは乗り越えて進んでくる。
 夜になると英軍も日本軍に何をされるか分からないから1箇所だけ穴を空ける。そこを目指して日本軍が逃げるのを機関銃で撃つのでどれだけ死んだか分からない。地隙(ちげき)という500m位の洞穴に逃げ込んだ。戦車がその前を通って南下するので敵の陣地内に入り、入口に爆弾が投げ込まれたりするが、そこからジャングルに逃げられて助かった。

マンダレーからタイ国境を目指し南下

 道中でたどたどしい日本語を話す女性が、赤ん坊を1人連れていて、「自分はもう長くない。日本兵の子供だから連れて帰って欲しい」と頼まれる。そう言われても最前線で、自分もどうなるか分からないので断ったが、彼女は赤ん坊を置いて戦車の方に行ってしまった。

1945(昭和20)年8月10日頃

 飛行機が飛ばなくなる。ラジオでは「終戦」と言っているが「敗戦」とは言わない。「終戦」とは習ったことも聞いた事もない言葉。敵は追えば逃げていく。いよいよ勝ち戦かなと思った。
 同年9月、敵が白旗を持ってきた、戦争は終わりましたよ。アーロンに10月7日に集まって下さい。銃器や刀を砂で磨いて集まったら負けたと聞いた。この時に逃げた兵隊が沢山居る。後にラングーンの街でバスの運転手がタバコやバナナを投げてくれたが、これは日本人だった。ビルマで結婚した者も多いだろう。

同年10月15日 アーロン収容所に

 ラングーンの収容所へ 3000人が移送になるという事で希望を募った  道路工事、遺体の発掘、鉄道工事、糧秣倉庫の運搬。最初の1年は虐待はひどかった。ビルマ人は好意的で仕事に行くと何か食えと軍票を沢山くれた。収容所の管理者は年に2回ほどこの軍票欲しさに検査に来た。
 首実検が行われた。知っている女の子が来た。彼女は仲が良かったので他の日本人の名前が分からず今西という名前を言っていた。自分ではないが乱暴されたことは知っていた。アマナプラという村を英軍が逃げた後日本軍が襲撃したところ英軍の軍票が沢山出た。そこで村長の家に皆を閉じこめて焼き殺して仕舞ったが、彼女は可愛かったので連れて帰った。藤蔓で縛って置いていたところ噛みきって逃げたらしい。背筋が汗でぐっしょりとなり立っているのか分からないぐらいだったが彼女はそのまま通り過ぎた。
 収容所の門の前には日本兵の父親を持つ赤ん坊を抱いたビルマの娘達がず~っと並んで待っていた。

1947(昭和22)年7月22日 宇品に復員

 米兵と一緒で口紅をつけた女性がいたのでオーストラリアに来たかと思った。
 500円を貰い家が建つほどの大金だと思って、お汁粉を2杯食べたら200円で大喧嘩した。浦島太郎だった。
 駅で1月29日に母が死んだと聞いて、京都駅前で缶詰や黒砂糖を全部放り出した。

※部隊は200名が死亡、172名が生還

Copyright(c) 2012 JVVAP. All Rights Reserved.