インタビュー記録

1940(昭和15)年2月10日 現役

 現役兵として弘前歩兵31連隊留守隊に入営。  2月22日に新潟港を出帆、25日に羅新港に上陸。

同年2月26日 朝鮮国境通過、関東軍司令官の隷下に入る

 駐屯地牡丹江省綏陽(すいよう)県綏陽に到着。

同年4月26日 留守業務担任部隊 帰還命令

 関参発第22号同17号により、留守業務担任部隊への帰還を命ぜられる。

同年5月11日 弘前着、歩兵第31連隊 留守隊第6中隊編入

 5月2日、朝鮮国境を通過し、羅新港を出帆。10日に新潟港に到着。11日に弘前に入り、同日、歩兵第31連隊留守隊第6中隊に編入となった。

同年7月15日 独立混成第16旅団通信隊要員として弘前出発

 7月18日、宇品港を出帆。23日、塘拈に上陸。8月1日、汾陽(ふんよう)に着く。
 8月10日、歩兵一等兵に任ぜられる。
 9月15日、勅令第581号により陸軍一等兵となる。

1940(昭和15)年 晋中作戦

 石太線(石家荘-太源)、京漢線の一部、同浦線の一部が八路軍の急襲を受け、駅の警備や小さな警備部隊は全部一網打尽に全滅した。
 城壁に白いペンキみたいなので「百団会戦大勝利 岡野進」と書いてある。日本人の名前だなと思ったらあとで野坂参三のことだと聞いた。
 鉄道は不通になり、手紙や慰問品も来なくなった。その報復として晋中作戦が行われた。

  • 第1期(※1940年8月30日~9月18日)
  •  独立混成第16旅団の独立歩兵83大隊・清水部隊に配属。
     無線通信は出動する各大隊に配属になる。
     何処に行っても誰もいない、住人も隠れていなくなっている。

  • 第2期(出動は11月9日~12月、※作戦は10月11日~12月3日)
  •  旅団戦闘指令所に配属。
     通信所の開設、機材を据えてアンテナを張るが雷で駄目になるし、敵も妨害電波を出す。敵は地形に詳しいので、ぱっといなくなる。あとで掃討して小屋を調べると小屋から地下壕を掘って部落の外れに抜けるようになっている。
     中隊とか少数で歩くとうわ~っと出てくる。大きな部隊でいるとわ~となるたけ避けて見えなくなる。とても素早い。村民も共産地区は姿を見せなくなる。

同年12月10日~1月26日 西方作戦

 41師団(臨汾)の工兵隊に配属になる。
 臨県までの自動車道路を河原に作る。ここが道路だぞと分かる程度。農家から農民を集めて協力してもらう。

1941(昭和16)年3月1日 陸軍上等兵

同年4月21日 独立歩兵85大隊・ますだ部隊に配属、中原会戦に出動。

 汾陽から平陽を経て、「かいけん」へ行軍。
 蒋介石軍が黄河を渡って陝西省から山西省にどんどん入ってきたのを迎え撃つための作戦だった。
 各隊は渡河点を占領するために、なんぼ撃たれても戦闘をするな、逃げてとにかく早く占領しろということで、撃たれるは撃たれるんだけどこちらはまず撃たない。

 前に通った部隊もあるらしく中国兵の死骸があったり、ぷんぷん臭って臭くなっている。馬も倒れている。ちょろちょろちょろちょろ川が流れていて、水を飲んで顔を上げて上を見たら飲んでる兵隊がいる。あ~水を飲んでいる兵隊がいるなと思ってはっと気づいたら服が違う。更に上に2~3人中国兵が水を飲んでいる、そのまま死んでいた。戦なんていうのはなあ。

 田んぼが無くなり、食べ物が無くなって仕舞って民家で徴発、小麦粉を持ってきてひっつみ(すいとんの郷土名)・向こうではとってなげって言うんだが鍋に入れて塩味をつけて食べた。
 制空権はあったので友軍の飛行機が落下傘で食糧を落としてくれた。米や粉味噌、粉味噌が花巻製で懐かしかった。夜腹病みをやって軍医に帰れと言われても帰れる場所ではないけど朝になったら治っていた。
 その後、輜重隊が遅れて来て糧秣を分けてくれた。山の上から自動車がヘッドライトを付けて5~60台来る。乗るが馬を積むのが大変、1個大隊が全部乗った。山を下って「ぶんき」で休憩、昔警備隊が全滅したところで壁に色々な事が書いてあった。

 貨車輸送で臨汾に、更に「ふじょうちん」へ急行軍。待機していると翌日中国軍が降伏するとやって来た。白旗を立ててどんどんどんどん降りてくる。1個師団ぐらい。兵器を徴収し山と積まれてトラックへ積んで持っていった。気砲、機関銃、軽機、山とあった。

 9月19日に汾陽に帰隊すると他の分隊はとっくに帰り戦勝会をやっていっぱいご馳走になったらしい、私ら行ったら何も無かった。
 9月11日に山西軍との調印式があって停戦協定があった。

1941(昭和16)9月20日~ しんぎん作戦

  • 戦闘司令所に配属、更に糧秣輸送のため残った輜重隊の配属になる。
  •  共産軍の基地であった「しんぎん」を襲い占領した。初めて分隊長となった。
     帰る時に時間が分からず帰る事しか連絡しなかったら、週番下士官が出て来て「伊藤、お前たちは何故時間を知らせねえ。炊事に飯がないから出せない」と言われた。松田曹長が事務所の中で聞いていたらしく、「俺が交渉するからお前ら内務班でまず軍装を解け」、内務班に来て「話しつけたから兵隊をやって飯上げをやれ」と言ってくれた。

     
  • 1941(昭和16)11月ごろ 85大隊に配属になり、汾陽から太源まで移動。
  •  無線1個分隊ではとても危険で行けないので、一緒に配属になった83大隊の1個中隊と一緒に動く。
     夜の行軍で、険しい山で道が狭い。馬は荷物で幅が広くなりぶつかるので怯えて足を動かすと崖なのでだ~っと落ちていく。
     慎重に歩いていくと夜明け森が見えてくると犬が鳴く。タバコの火がぱ~っ、ぱ~っと、ざーっと敵が見えた。あ~来てら~これはぶつかるな。
     山を降りると広い河原になって遮蔽物が無い。左に低い山がありぞろぞろ河を渡ったら一斉にばらばらばらばら。
     衛生兵、衛生兵と負傷者も出たりして、足元さばらばら、ばらばら~と、前さも後ろさも行かれなくなっちまって。中国人人夫に馬を持たせているが、一目散に逃げて、一人で3頭ぐらいの馬の鼻面を持ってさ、今度はやられるんだと思ったがよく当らねかった。ぱぱぱ~ぱぱぱ~とやるんだもんね。一体歩いたらいいか、止まったらいいか。
     重機関銃はちょっと小高いところがあったのでそこから援護しろ、後は強行突破だ、と。馬をまとめて引っ張って歩き出したら後ろからぼか~ん、ぼか~んと山砲、85大隊で状況が悪いから迎えに来てくれた。敵も止めて仕舞って山の陰に退避して一難を避けた。
     喉をやられた兵隊はいたがどうなったんだろう。犠牲者は出なかった。

    1942(昭和17)年4月 勝第4219部隊に転属

     軍令陸甲第8号により、4月8日、勝第4219部隊に転属。第2中隊に編入となる。

    同年2月30日 移駐のため汾陽出発~臨汾(りんふん)に着く

    同年5月10日 陸軍兵長

     人を殴るなんて出来なかった。
     3年兵になってから初年兵教育の助手をやれと言われた。普通は2年兵がやる。とても人を教育をするがらじゃないからと辞退したけど、教官が「いいから伊藤兵長やれ。付いて歩くだけでもいいから」と言われてやった。2年兵の一人が張り切る、一生懸命これ(ビンタの仕草)をやる。わしはやったことないもの。
     2年兵があまりやりすぎて、目から頬が紫にをなっている。2~3日後、随時検閲があり師団長も来る。営庭に並んで師団長が初年兵に「どうした」と聞いて軍医部長を呼んだが、「たいした事はありませんよ」と。帰ったらやられるなと心配したけど何もなかった。

    同年7月23日~ 対61軍(山西軍)作戦

     大行作戦で部隊は出払っていた。山西軍の大部隊が近くを通っているという情報があり行ったが兵隊がいない。残っている兵隊を借り集め1個大隊を作った。私らは師団司令部で通信所を開設していたので行かなかった。
     雨が降ってぬかるみが出来、「しょうかく村」でぶつかって白兵戦の大激戦になった。肌が土でぬれてぬるぬるする。通信隊の中隊長が足を滑らしてもんどりを打ち、山西軍が銃剣で刺そうとした瞬間、後ろにいた初年兵が腹を刺し中隊長は命拾いをした。

     85大隊の部隊長は小休止がなくどんどん歩かされる、兵隊はぶつぶつ言って「逓伝、小休止はまだか」と後尾から回ってくる。その代わり明るいうちに設営出来るので良い、暗くなってから井戸探せ、鍋探せは大変だ。
     83大隊は通信係の将校の中尉が通信隊を大事にする人で、いつも大隊本部の近くに宿舎を取ってくれる。
     通信隊は最後のときは機材を破壊し、暗号表を焼却して、それから突っ込むことになっていた。

     馬は向こうに行ってから乗った。毎朝馬の足の裏を洗って油を塗らないといけないが、どれがどれか分からない。古い兵隊は暴れ馬を誰も掴まない。おとなしい馬を先にぱ~と取って仕舞う。初年兵がぼやぼやしていると怒鳴られるが、馬の足を掴むと足を伸ばしてよたよた飛ばされる。

     山西省は山、山、山。それから河北省に行くと行けども行けども原野、畑、こーりゃん畑、一日居ると飽きる。こーりゃん畑から撃たれると何処から撃たれているか分からない。
     普通に歩けば1日20~30キロ、馬の尻尾に掴まって歩く兵隊もいた。馬があるからひどくなれば付けてもらって落伍するなんてあまりなかった。通信道具以外の自分の荷物は自分で運んだ。

     水は良い水に当らない。沸かすと石灰だそうで真っ白になる、生水を我慢できず飲むと下痢になる。宣撫地区に行くと部落のおじさんが水を持ってきてくれる。まず自分で飲んでみて大丈夫だと証明してそれから飲ませる。

     宣撫地区と共産地区は入り混じっている。共産軍と中国軍がぶつかってもやるでしょ。日本軍も八路軍とやったり山西軍とやったりこんがらがっている。山西軍は味方になったり敵になったり当てにならない。

    1943(昭和18)年7月24日 北部第22部隊に転属

     陸支機密第254号により北部第22部隊に転属するため、山西省臨汾を出発し、26日に山海関を通過、29日に朝鮮国境を通過した。8月1日、釜山港を出港し、2日に下関上陸。8月4日、北部22部隊に到着。
     8月11日、服役延期解止、満期除隊。12日、予備役となる。

    釜石製鉄所で働く

     オーストラリア人の捕虜が働いているのを見かけた。大橋鉱山には朝鮮・中国人が多いと聞いていた。

    1944(昭和19)年8月13日 北部22 部隊に応召

    同年8月20日 東京都北多摩郡陸軍少年通信学校内 陸軍中央特種情報部要員に

     特種情報部は敵の無線を傍受して暗号を解読する。和文ではなく欧文の暗号なので、和文と混合して苦労した。第一ローマ字もろくに書けない。軍属が教官をしていた。
     本部から将校見学があった時「よく取るじゃないか」と褒められ、A組になって翌日から機械を与えられ勤務が始まった。短波無線、夜昼の勤務でただ取るだけ。解読は2世のハワイから来た人とかがたくさんいたそうだが、顔をあわせることはなかった。
     1回だけ、ビンタをやらねばいかんような状態になっちゃった。外出して空襲警報が出たけど帰ってこない奴がいて。これは時間外だから罰せられる。1班の班付きだったが、1班はあまり緩いからだと皆に言われた。他の班でも点呼が終わるとびんがびんがビンタやられて脅かされるのに俺の班は何も無い、普通にす~っと、あまりに静かだと。その時初めてやった。

    1944(昭和19)年11月 陸軍伍長

    1945(昭和20)年4月 北海道北広島北方軍特殊情報部に分遣

     東北出身だから寒い方はどうだといわれ「行きます」と言った。「無理しなくてもいいぞ、ここに居たければ居てもいいぞ」と言ってくれたけど「行きます」と言った。
     東京出張の時帰りに休暇をくれて、釜石の親戚に寄った。帰ったら向こうの隊長に「馬鹿を言え。今を何だと思ってる。休暇なんてもってのほかだ」と散々絞られた。

    1945(昭和20)年8月15日 終戦、現地解散 17日復員

     負けたこと、ポツダム宣言の受諾は無線で前に聞いていた。正式に東京から電報が入り敗戦となった。
     部隊長が待てと言ったが、「早く帰せ」「稚内にロスケが上陸したぞ」「北海道は占領されるから早く帰らねばならない」と兵隊が騒ぎ出した。ストライキみたいな感じ、週番士官が来てなだめても言うことを聞かない。部隊長(中佐)が「2日間だけ待て、軍司令部に行って命令を聞いてくるから。それでなければこの奥澤を処分してから勝手な行動をとれ」といわれて待つ事になった。
     分遣隊の者が先に帰った。
     北広島駅にきたら、他の部隊の兵隊がもっこりしょって、何なんだべと、自分の体より大きな荷物をしょって歩いている。こっちは米一升と給料だけで他は何も無い。函館まで来たら皆もっこり持ってくる。あ~は~馬鹿見たなあ。
     大きな船に乗って横になり、そろそろ青森かなと思って夜明けになると船が動いていない、函館にいる。エンジンが故障したから降りてけろと言われて降ろされ、漁船に乗るだけ乗れと100人ぐらいすし詰めになって大丈夫かやと。
     青森から汽車に乗り花巻に行くと焼かれていて何も無い、ここさ来ても家も何も無い。義理の兄が釜石にいたのでそこに戻った。釜石は艦砲射撃で滅茶苦茶、駅前の煙突もなくなっている。辞める人も多かったが課長に止められ片づけをしていた。
     不在の田畑はマッカーサーに取り上げられるので帰って来いと叔母から一生懸命連絡があり、帰りたくなかったが花巻に戻った。

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