インタビュー記録


1942(昭和17)年1月10日 赤坂の東部62部隊に入隊(志願)

  • 神奈川県川崎市出身。東京に丁稚に、実家は農家。
  • 2男だったので1年早く帰って早く独立しようという気持ちがあった。
  • 神奈川県の徴兵検査が終わっていたので町田市で徴兵検査、19歳。
  • 北支要員。当時は北支の情報がなんにもなくて、友達同士で「お前良かったなあ北支で」と言っているような感じ。
  • この間基礎訓練
  • 同年1月27日 面会

同年1月28日 夜中の1時、出発

  • 赤坂から行軍で品川へ。岩崎邸に入って休憩してから軍用列車に。広島へ行って宇品から貨物船に。

同年1月30日 釜山へ

  • 釜山で1泊。陸路で鴨緑江、山海関を通って、河北省の東長寿の大隊本部に到着。
  • 行き先は告げられなかった。部隊名もわからない。

独立混成第8旅団独立歩兵第31大隊(春2981)第4中隊に

  • 旅団本部:石家荘、中隊:無極県
  • 東長寿について入隊式。そこで手榴弾2発と実包が支給された。手榴弾1発は自決用。
  • ここで各中隊ごとに分かれてトラックでそれぞれの中隊本部へ。
  • ここではじめて部隊名が分かった。“どっこんはち”と呼んでいた。歩兵5個大隊、砲兵、工兵、通信、合計8個大隊。31大隊は通称春2981で、最後の文字をとって春1と呼んでいた。他の部隊も同じように春2、春4とか呼んでいた。
  • とにかく寒さが半端じゃない。どんよりしていて何も見えなかった。

同年2月3日 中隊到着

  • 中隊へ着いた時には、中隊主力は全部討伐に出ていた。翌日主力は捕虜を連れて戻って来た。そこである儀式があった。それはちょっと封印しとく。
  • その晩に爪と髪の毛を切れ、遺書を3通書けと言われた。そこではじめてこの部隊は戦闘専門部隊なんだと、内地のような教育はしないと、そういう風に思った。
  • 隣りの戦友と「えらいところへ来ちゃったんだなあ」と実感した。

  • 1期の教育が始まった。なんだかんだ私的制裁が多かった。
  • 下士官候補をしていたのである程度加減されていたかもしれないと思った。
  • 両隣の戦友が良くやられた。編上靴の靴底でやられる。鋲がついていたのですごいことになった。
  • 実戦に役立つ訓練をした。けれども私はっきり言ってあんまり感心しない。
  • 3カ月で終わった。
  • これから討伐に行くから、焼くな、犯すな、殺すなとよく言われた。八路軍は住民を味方につけていて、はっきり言ってこれは全然守れなかったんじゃないかと思う。
  • 相手は八路軍。蒋介石軍とは1回もやったことがない。
  • 休みは全然ない。4中隊が1番状況の悪い所にいた。
  • 何回も夜襲があった。ただ城門の中までは入ってこなかった。そのときの古参兵の素早さが非常に印象的だった。非常呼集がかかって初年兵がでていくときにはすでに出ている。夏場なんかはふんどし1丁で軽機関銃をぶっ放している。
  • 春部隊は戦闘に慣れていた。

下士官の予備教育に

  • 威県(いけん)で旅団の集合教育をうける。春1から17名いた。
  • ここでの教育が猛烈。こんな教育ないというくらい、1期のときの私的制裁よりももっともっと凄い。徹底的に絞る。
  • 一般兵より1時間早く起床。そして銃剣術の防具を付けて集合。このとき十番以下になると3キロの池を1周。さらに下はもう1周と続いていく。そうすると動作の遅い者は銃剣術の練習を1回もしない。
  • 寝る前に銃剣術の白いズボンと、地下足袋をはいて寝ていた。起床と共に飛び起きて防具を付けた。そんなわけで3番以下にならなかった。たまに助教が調べに来た。すると自分だけかと思っていたが他にもやっている者がいた。
  • 今度は演習。班へ戻ると、整頓して置いておいた衣類が崩されている。
  • 演習の時、標的を川の向こう側に立てる。最後に突撃する時は河の中に飛び込む。河から上がるとまず銃口を見る。銃口が濡れていたら大変なことになる。これが終わると兵舎まで匍匐で戻った。
  • これをずーっとやる。中国人が見て笑っていた。
  • ちょっとでも姿勢が高いと上からふんづけられる。どろんこ、皮が破けて血だらけになる。
  • 遅れることは絶対に許されない。
  • 半年やって、こんな教育はないなあと思った。
  • 脱落する者もいた。17名が9名になった。この訓練の後、学校へ行ったが、卒業したのは5名だった。学校の教育は天と地だった。学校では叩くことは絶対しない。実技より学科だった。学校に半年。

1943(昭和18)年6月

  • 1年たって原隊復帰。旅団本部は順徳に移っていた。大隊本部は沙河(さが)。中隊は羊范鎮にいて、そこにもどった。羊范鎮は非常に状況がよかった。
  • 本隊は18春大行作戦に参加していて、留守隊しかいなかった。
  • 羊范鎮は非常に貧しい所でほとんど作物が取れない。だから八路軍が来ないので治安が良かった。
  • 3週間羊范鎮にいて、7月に冀東(きとう)地区に移動、本隊と合流。

1943(昭和18)年7月 唐山に旅団本部が移動

  • このあたりは1番状況が悪い。
  • 大隊本部は遷安(せいあん)。揚店子(やんてんず)に4中隊は駐屯。
  • このあたりには極部隊(27師団)がいた、交代する。
  • 八路軍の正規軍がいて他の地区とは兵力が違った。中隊で行動していて随分叩かれた。
  • 8月くらいに旅団から中隊単位の行動を一切やっちゃいかんと命令が来た。大隊討伐でなければ一切いかん。1中隊が17名、2中隊が4名、4中隊が7名、戦死していた。
  • 9月に入って中隊長が2回目の負傷をして内地還送になった。
  • 10月にはいって、2中隊の見習士官以下7名が戦死。
  • 12月まで旅団討伐が1回、大隊討伐が3回。この間が非常につらかった。

  • 7月に原隊に戻るまで教育でほとんど行軍しなかった。討伐は行軍が非常に多い。つらかった。
  • 毎晩足の豆の治療ばかりやっていた。縫い糸をヨーチンに浸して、縫い針につけて豆に刺す。それで縫い糸を豆の中に残して切ると、1晩で治ってしまう。
  • もう1つ苦しんだのは水。1日水筒1本ですませろという。これでもって飯から何まで全部すませなければならない。1口くらいしか飲む水がなかった。それに耐えられず、水あたりして下痢になって随分苦しんだ。
  • 下痢をしていても部隊は待ってくれない。したくなった時に部隊の先に駈け出して行って用を足してまた戻るという事を繰り返した。一番多い時は24、5回まで覚えているがそれ以上は覚えていない。
  • 結局これが野戦に強くなる。
  • 18年はそんなことで苦しんだ。
  • 11月の初め、14年兵が除隊した。この人たちが1番勇敢だった。随分初年兵の頃に助けてもらった。私的制裁を受けていると、どこからか聞きつけてやってきて助けてくれた。この人たちが帰るときにはみんな泣いていた。

1944(昭和19)年

  • 2月、春1部隊から3中隊が転出されて、曙部隊が新設された。その穴を埋めるために、残りの1中隊、2中隊、4中隊から選抜して新編3中隊を作った。結構優秀な人材が集まった。中心になったのは16年兵。自分も3中隊になった。当時陸軍伍長。
  • 移ってすぐ18年の現役が来て、その教育。18年兵は現役だけではなく、補充兵、現地召集者もいた。遷安で教育、3カ月で終わった。
  • 3月 大隊討伐。初年兵も参加。「もし犠牲を出したら大変だな」ともの凄く言われた。ところがあまりにも抵抗が激しくて討伐は失敗。
  • 4月 大隊長が交代。この人がすごい人。下士官から上がった少佐。この人は幹候あがりの見習士官を使わず、下士官ばっかり使ったので、よくつかわれた。それで戦闘が好きだった。すぐ下士官を集めて「本官はウースン上陸以来、戦闘経験4百何十回」と始める。旅団命令を無視しても討伐に出るという人。だから中隊はたまらない。

1944(昭和19)年5月 大隊長が代わってから
  1月に冀東(きとう)作戦が始まった

  • その時の敵が3千から4千。こちらは5百人そこそこ。
  • この作戦の最初の戦闘で、1中隊で55名、あとの2、3、4、で22名戦死した。
  • 1中隊は後方を遮断すると言って先発した。ところが実際には目的の部落ではなく、その手前の高地でやられた。途中まで行ったら音がすごい。行った時には1中隊はほとんどやられていた。兵器は全部持って行かれていた。
  • 3中隊は1個小隊だけで本部付きで後ろの方にいた。小隊長が負傷したので指揮をとらなければならなかった。初年兵もいた。自分も擲弾筒を撃った。弾がほとんどなかった。1中隊が撃ちつくしてしまっていた。
  • 突っ込んでみたら中国兵がいて、顔を見るとどう見ても16、17歳。撃つことが出来なかった。5-6人いた。あとで逃げたと思う。
  • その晩は丘と言うか山と言うかその高地にいたが、岩山で穴を掘ることも出来ない。カンパンだけ食った。戦闘をやった後の喉の渇きというものはすごいが、水は1滴もない。
  • 隣の山には随分敵襲があった。谷間では負傷者を手当てしていた。
  • 6月8日明け方、奇麗に晴れ渡っていて、右側の高地を見ると累々と死体が横たわっていた。これが1中隊のアレ。その日の昼過ぎに遷安に戻った。この時の死体はどうしたのかわからない。

1944(昭和19)年7月 方面軍の命令で春兵団は野戦機動部隊に

  • 野戦機動軍というのは、八路軍は1晩に40キロ歩く。それに対抗するには我々の方もそれくらいしなければ駄目だということで、兵舎を捨てて野戦軍になる。それで機動部隊。
  • この頃は点と線ではなく、点だけになっていた。
  • どんどんどんんどん敵の兵力も増えてきた。こっちもどんどん減っていた。
  • 野戦軍になってからが大変。ほとんど自給自足。はっきりいえば、食糧は全部現地調達。住民がいた場合には金を払っていたと後で聞いたが、ほとんどの部落には逃げちゃって人がいなかった。結局ある物を頂戴するしかなくなった。みんな家探しが上手になった。油探す奴、塩を探す奴、片っぱしからそればっかり。
  • 靴は支那靴を履いていた。軍服も切れちゃうので便衣を着ていた。
  • とにかく行く先々で寝るよりしょうがない。よく高粱殻の中にもぐって寝た。部落の中に入るとシラミが凄くて寝られない。3カ月4カ月風呂に入らないので元々シラミがすごかった。
  • 野戦軍になってからほとんど夜行軍になった。
  • 弾薬だけはその地域を警備する部隊から補給してもらっていた。食糧を持つより弾薬を持てということで食糧を持っていなかった。

1944(昭和19)年8月 3中隊の中隊長が戦死

  • 中隊は部隊の後衛だったので普通はやられないが、8月で高粱がものすごく伸びていて、部落の回りは全部高粱だらけ。そこでやられた。どっちから弾が飛んでくるかわからない。中隊長は後ろからやられた。
  • 中隊長が「突っ込めー!突っ込め―!」と言っているのは聞こえたがどこに敵がいるのか分からない。ここにいたらみんなやられちゃうということで、その時に同年兵だった見習士官の小隊長が突っ込まなかったので、自分が命令を出して突っ込んだ。とにかく兵隊を死なせてはいけないと思った。
  • 出て見ると、敵は50メートルも離れていない家の上にレンガを積んで、そこからものすごく撃っていた。突っ込んだ時はものすごい。手榴弾の不発弾がごろごろ転がっていた。
  • 時間にしては30分もなかった。
  • 部落に入ると山の上に廟があって、そこから猛烈に迫撃砲を撃ってくる。迫撃砲は非常に命中率がいい。この迫撃砲の射撃を受けている時に、足から血が出ていると言われてはじめて負傷していることに気がついた。見るとべったりついていた。そう言われてみてから痛くなって来た。部隊長から入院は駄目だと言われた。

1944(昭和19)年10月 遺骨護送を命じられる

  • 旅団に行って、将校1名、下士官1名、兵1名が選ばれた。1つの休暇、旅団長やなんかがみんな選別をくれた。
  • 遺骨列車がちゃんとあって兵1人が衛兵に立つ。ず-っと何にもなかった。唐山から山海関を通って釜山へ。そこで船に移す。それは兵站の兵隊が全部やる。
  • 船に乗って博多へ上陸。遺骨は1人1人原隊からとりに来た兵隊が胸に抱く。
  • 博多の人は誰もお辞儀をしなかった。しょっちゅう来ているから。遺骨護送はここで解散。今度は単独で原隊に復帰すればいい。
  • あとは自由行動。ほとんどの連中は博多駅に駆け込んだ。駅長に頼んで証明書を書いてもらった。それで実家に戻って2日間くらいいた。ほとんどは頼まれた戦友の家を回っていた。母親がいたが状況は言えなかった。ただ「足どうしたんだ」ということはいわれた。「靴ずれだよ」と答えた。
  • 帰りは八王子出身だという人と1緒に戻ることになった。東京駅で待ち合わせた。駅ではたまたま防空演習をやっていた。中国地方を通過したころ、2回ほど空襲警報があった。下関から関釜連絡船にのって帰ることに。奉天で「ちょっと買い物しよう」なんていって降りていたら、結局着くのが予定より1日遅れてしまった。
  • 本隊は討伐の途中で留守隊に合流。

1944(昭和19)年12月1日 陸軍軍曹に任官

  • 補充兵と現地召集の者を教育。これがすごい年寄り。1番上が35。だから教育のやり方を変えた。体力が全然違う。ただ、死なないようにとは教えた。

1945(昭和20)年  各中隊から1名ずつ対米戦闘の教育をうけた

  • 大本営の参謀がやってきて講義をした。その時に「この戦争は負ける」と話した。「硫黄島を見ろ。日本軍が1発撃てば2百発打ち返してくる。落ちてくる飛行機は全部日の丸だ。これで勝てるわけはない。俺がこういうことを言えば当然憲兵が狙ってくる。でも、お前達には本当のことを言う。負けるんだ。だけれども、北支軍はまだ負けていない。だから米軍が上陸したらば北支軍が逆上陸する。逆上陸してゲリラ戦に持ち込むんだ。そういう訳できた。」講師の話が終わった後に、みんな本当かなあと半信半疑が多かった。まさか負けてるわけがない。
  • この教育が終わってから中隊に内地から最後の現役兵が来た。補充兵も混じっていた。これをみて驚いた。全部装備がなっていない。小銃は3人に1丁。ゴボウ剣が竹の鞘で、それが削れて中身が飛び出ていた。水筒は孟宗竹を切ってひもを付けた物で、来た時には全部節が抜けてしまっていて、水が入りっこない。これを見て、あの参謀が言った話は本当かなあと思い出した。
  • 前の年より教育に情熱がなくなった。いまさら彼等に酷い教育をやったってしょうがないと思った。徹底した手抜きをやった。この時の教育は4個中隊全部1緒で教官が1人だけ。しょっちゅう、どこどこの目標まで行かせてから、煙草吸えと言って歩哨を立たせて、いろんな話をして、野戦に慣れるにはこういうふうにするんだぜ、とかそういうことばっかりやっていた。

1945(昭和20)年3月  独立警備歩兵第14大隊1中隊に転属

  • 伸張部隊と言った。5個中隊に銃砲隊。
  • それまで春兵団が警備した所をこの部隊が警備することに。大隊長以下がそっくりそのままこの部隊に。
  • 三河が大隊本部。薊縣(けいけん)が中隊本部。
  • 4か所の分遣隊。上倉鎮(じょうそうちん)というところの分遣隊長をやった。城壁の中にあった。分遣隊は10名。
  • ここには保安隊が1個大隊いた。馬(まー)大佐が指揮官で、自分の指揮下に入った。馬大佐は後に八路軍が進駐してきた時に銃殺された。装備がすごくよかった。重機1丁、軽機1丁、擲弾筒3挺あった。年がら年中試射と言って重機をぶっ放していた。
  • 敵はたまに出る。保安隊に頼まれてたまに戦闘に出た。5名残して5名で行った。ほとんど戦闘はやらなかった。
  • 敵襲は3回あった。そのときは出なかった。出るとやられる。

1945(昭和20)年4月末  蒙家郷(もうかきょう)の分遣隊長に

  • 蒙家郷の分遣隊3名が戦死したという情報が出た。いろいろ調べてから5日後くらいに保安隊800名をひきつれて中隊本部に連絡に行った。
  • それから5、6日たってからいきなり大隊主力が来て、大隊長から「お前がやれ」と言われて蒙家郷の分遣隊長に任命された。
  • 私物など持つ物をほとんど持たずに蒙家郷へ行った。
  • そこについて隊長から言われたのが「絶対に出てはいかん」ということだった。
  • 行って分かったのが、蒙家郷では隊長以下3名が戦死していたこと。とにかく食糧がないのですぐそばの川に手榴弾をブッこんで魚を取ろうと6、7メートル行った時にあっというまにやられてしまったという。死体も持っていかれてしまった。翌日部落民が持って来た。全部身ぐるみはがされていた。
  • 暗号文を毎日だす。
  • そこでまずやったのは壕をものすごく深くさせた。すると、1年上の連中が「俺達は穴を掘りに来たんじゃねえ」と文句を言う。
  • 昼間は寝てるか、器用な物が作った麻雀をするか。夜は毎晩毎晩撃ってくるので起きてなければならない。
  • 焼き米を作った。これは1週間持つ。トーチカの中の草を全部むしって食った。交代した時に2頭いたロバも食べた。でてきた青大将を2回くらい食べたことがある。
  • すぐとなりのトーチカに保安隊が3百名くらいいた。一番心配したのはその保安隊が寝返った時のこと。しょっちゅう保安隊のところに行って麻雀をやった。
  • ほとんど食い物がなくなって来た。
  • ある晩、2個大隊が撤収にやって来た。「1時間後に出発だ」報告しないうちに工兵隊がどんどん爆破した。それから夜行軍で帰った。この時もつらかった。ほとんど運動をしていなかったので。

1945(昭和20)年7月 中隊に戻る

  • これも運。終戦までそこにいたら完全に全滅していただろう。

1945(昭和20)年8月18日ごろ 大隊討伐に出ている時に終戦の情報

1945(昭和20)年8月19日 討伐から戻る

  • 停戦協定が結ばれたという話だった。負けたという話ではなかった。うまくすれば内地に帰れるかもしんないよという話だった。

1945(昭和20)年8月20~30日 分遣隊の撤収

  • これが大変だった。
  • 大隊本部に1番近かった分遣隊が遅くて27日に全滅した。分遣隊長以下14名全員戦死。
  • 撤収作戦中、大隊から21名戦死。
  • 撤収が終わってから、各中隊は三河の大隊本部に集結。

1945(昭和20)年9月3日 薊縣を出発

  • 三河まで約40キロ。そこまで八路軍が十万いるということだった。
  • 食糧はほとんどもたずに弾薬だけ、280発くらいしょえるだけしょった。
  • 山道ばっかりを夜行軍。普通だったら40キロは1日で行けるが、三河についたのは9月7日だった。食糧は2日分だった。

1945(昭和20)年9月9日 通州へ集結のため三河を出発

  • 通州の手前に大きな河があった。その手前で満州のほうから、下道(げどう)部隊(註:240連隊第1大隊)が南下してきた。下道部隊長はすごい決断力が良かった。本当は北上しなければならなかったが、南下して在留邦人3百名を助けた。
  • それから河を渡った。工兵隊が端から端まで手で橋を作った。橋上は馬車と邦人。
  • どこからも撃たれなかった。方面軍が戦車隊を出し、砲兵隊がものすごい砲撃をした。河の水は冷たかった。

1945(昭和20)年9月10日 通州到着

  • 下道部隊はその後北京へ。
  • 今度は北京城が危ないということで北京城の警備に。天安門広場の外にあった城壁にいた。市内には入らず。襲撃はなかった。
  • ここで初めて慰問団に慰問された。入隊以来電灯も見た。渡辺はま子がいた。「私達もいつ帰れるかわからない」

1945(昭和20)年9月末頃 警備任務終わり

  • 武装もそのままでまだ敗戦と言う話もなかった。

1945(昭和20)年11月7日 通州の営庭で慰霊祭をやった。

  • この時は90柱。神主が来た。あとは復員を待つだけ。

1945(昭和20)年11月半ば  方面軍から出動命令

  • 密雲(みつうん)に出動せよ。春兵団の指揮下に入れ。という命令
  • 豊台へ1個中隊の6名を残務整理に残して、あとは全員出動。ここで運よく残務整理

1945(昭和20)年12月1日か2日  密雲で戦闘

  • 中隊で2名戦死。7名が負傷。負傷者の中に1人教え子がいてのちに戦傷死

1945(昭和20)年12月7日 蒋介石軍に引き渡して主力が豊台に戻って来た

  • 本隊と合流。その日に武装解除、国民軍から来たのは2人だけ。彼等は見てるだけ。
  • 今度は本隊と分かれて、6名で武装解除をした兵器をトラックで天津まで運んだ。
  • 武装解除した後の現地人は変わった。何か取ろう取ろうと思ってトラックに飛び乗って来る。

1945(昭和20)年12月9日  天津の貨物廠へ

  • 張家口から撤収してきた春3の人達と一緒に帰ることに。春3は張家口で3日3晩凄い戦闘をやってたらしい。

1945(昭和20)年12月13日 糠沽(たんくう 註:天津の港)から乗船

  • 乗船する時にアメリカのMPに時計をみんなとられてしまった。3つ持っていた時計を全部とられた。

1945(昭和20)年12月17日 佐世保上陸

  • 佐世保には朝ついた。前の晩から何も食べていなかったのでフラフラだった。すぐに上陸できるかと思ったらできない。夜に上陸することに。
  • 上陸して素っ裸にされた。そしてDDTをかけられた。外套だけ着てもいいということでそれを着て検査。
  • とにかく夜中に山道をずーっと宿舎まで行軍
  • その時に1番うれしかったのは、真夜中にもかかわらず女の人が4、5人水を出してくれたこと。その水がうまかったこと。あれは今でも忘れない。
  • 前を歩いている者から何か白い物がチラチラ見えると思ったら、褌がはずれていた。褌が外れているのもわからなかった。
  • 宿舎についたが、宿舎とはいえない。板張り1枚で下はアンペラ。外套1枚。寒いから板を全部はずして燃やし始めた。そしたら日本人の警備員がやって来ていちゃもん。
  • ここで3日間ぐらい。その間ずっと外套1枚。
  • 翌日になってやっと周りの景色が見えた。
  • 地図が張ってあった。「俺の家は焼けちゃってる」というのが結構あった。
  • 飯盒に1食、カンパン1袋、千円をもらった。「東京に行くまでは兵站司令部が食糧を出してくれるよ」という甘い考えだった。列車に乗ったと同時に飯盒飯を食べてしまったが、結局後は飲まず食わず。

 帰ってきてから1カ月近くは休めなかった。
 すごく思い出してしまう。

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