インタビュー記録

1941(昭和16)年1月10日 舞鶴海兵団に入団

 東京の薬問屋で丁稚奉公、東京中を自転車で配達に走り回っていた。
 小学校の成績は悪かったが東京に出て人の多さを知り勉強するようになった。
 海兵団では197名中1番で、12の教班中所属する教班が1番になった。班長がお前のおかげで初めて12班中1番になれたと配所の1週間前に筑摩(巡洋艦)に乗るはずだと所属予定を教えてくれた。
 自分は車でも酔うたちだったので「丘の仕事はないですか」と聞き30分ぐらいするとうまくいったぞと言われた。

舞鶴鎮守府第2特別陸戦隊に

 あの時自分の代わりに霧島に乗った人はどうなったのだろうと運命を思う。

1941(昭和16)年5月頃 海南島・定安に

 一度だけ共産党軍の部落の討伐があった。
 村はもぬけの殻、山の稜線に人影が並びこちらを伺っている。赤ん坊が1人残されて泣いていた。
 なんという親かと思ったが、慰問袋にあったお菓子を持っていたので集めて残した。
 古年兵が女性を刺殺しているのを見た、軍隊がいっぺんに嫌いになった。

 海岸の砂地に輸送路を作る事になった。
 ヤシの木を針金で縛って並べたらどうかと提案すると、初年兵なのに「ならお前が行ってやってこい」となって仕舞った。
 通訳2名と日本兵1名だけで行くと百人近い中国人が集められていたが、女性や子供、年寄りまで来ている。「子供は学校に行け、年寄りは帰れ」と列からはずし女性も軽作業に回すと、台湾人の通訳が「シーさんは助べえだ、女性に優しい」と言ってると言う。文化の違いだなと思ったがこれで信頼が得られ作業はしやすくなった。
 太平洋戦争開戦が近づき半年弱で帰国することになると、村長や校長が豚の丸焼きなどを用意した送別会をやってくれた。
 「日本に帰るな、ここにいろ。もうすぐ米国と戦争することになったら死んでしまうぞ。ここならわしらがあんたを守れる」と言われた事を何度も思い出す。

1941(昭和16)年10月末ごろ 出国

 サイパンに上陸。太平洋戦争が開戦すると部隊はウエーキ島を攻撃(倉兼さんは残留部隊)。そこからニューアイルランドを経て、ニューブリテン島へ。

1942(昭和17)年1月半ば ニューブリテン島・ラバウル着

 第2特別陸戦隊は第81警備隊と第82警備隊に分割。第81警備隊はラバウルに残り、倉兼さんの第82警備隊はラエへ。

1942(昭和17)年3月8日 ニューギニア・ラエに上陸

 ポートモレスビーから飛来する飛行機で毎日爆撃があったが、当初は零戦が未だあってそれなりに迎え撃っていたが燃料もなくなり、残った飛行機も引き上げていった。

1943(昭和18)年10月半ば 米軍の艦砲射撃が始まりシオへの転進命令

 1週間で着くと聞いていた。靴下1足分に詰めた米と乾麺棒を渡され出発する。
 道はまったくなく磁石でジャングルの中を歩く。きれいな鳥はいるが地上には動物もいない。マラリアとテング熱が蔓延し、要は人の暮らせる場所ではない。工作隊60名で、1人も歩ける者がいない状況もあった。
 最初のうちは手榴弾での自決が次々に起こった、もう力が無いのをやっとの事で爆発させ自決する。ずっと一緒に歩いていた兵長は都会育ちで貧しい生活が我慢できない。まだ米もあるのに自決すると言う。残った米を貰った。
 工作隊の隊長(大尉)の従兵が1人は亡くなり、1人は逃亡して、代わりを務めることになった。隊長はもう50代半ばの人、だがこれが生還できた大きな要因となった。

 4000m超のサラワケット山を超える。最後の200mは断崖絶壁で蔓を伝って上がり隊長を引きずりあげる。山頂は真冬の寒さ。陸軍の兵隊が2名、隊長を見て自分たちの貼っていたテントに招いてくれた。以前陸軍がポートモレスビーを目指しその後撤退する事になった時、工作隊はそれを助けた部隊で、その隊長だったので声をかけてくれたものだった。
 朝が明けると、泥の中に100名以上が折り重なって凍死していた。
 銃を集めて暖を取ろうと燃やしたあとがあった。

 武器は手榴弾を残し自分のものも隊長のものも捨てて山を降りる。かなり降りた川沿いで大隊長(大佐)が大きなテントの側にいる。見ると川で洗って捨てられた芋の筋を拾い集めている。従兵4名は皆倒れてテントの中に寝ていると話した、4名をその後見ることはなかった。

 5~6人倒れている。腿の肉を取られた人も何人もいて、まだ動いている人もいた。食人種の部落を越えるとき、そこはまとまって通らないと危ないと言われていた。家々の戸口には人骨が飾ってある。頭蓋骨が一番上で、あとは大きな骨から上にかかっている。

 陸軍の兵隊が士官用の食料を配っており一緒にいたので貰うことが出来た。
 草庵があり隊長が泊まると言う。食人種の部落からまだあまり離れていないので危ないと思ったが、50代の隊長はもう歩けず、山頂の陸軍の兵隊が小銃を持ってまた合流したので4人でそこに入った。
 食人種が2、3人来て何か言ってるが分かるはずもない。暫くすると彼らに小屋を取り囲まれている事に気づいた。歌を歌い、矢を弓につがえ、調子をとりながら少しずつ間合いを詰めてくる。
 「撃つか」と言われたが銃で撃てる角度は限られている。その時なぜか頭の中に「目が喧嘩する」という言葉が浮かんだ。まっすぐに手を伸ばして宙を指さし、そちらを見つめて1列になって小屋を出た。なぜそんなことが出来たか分からないが、不思議に彼らは矢をつがえたまま道を開けてくれた。

 陸軍の兵隊(先の2人とは別)が、現地人の豚肉が手に入ったので塩と変えてくれと言ってきた。塩は塊を持っていたので幾らか渡すと肉の固まりをくれた。隊長にどうしますかと言うと「う~ん捨てるか」と言われたので、自分もそれが良いと思い捨てた。

 42日目にシオに到着、隊長はその夜の潜水艦でラバウルに行った。
 シオに着いても何もなく、巨大な岩石の影に隠れて呆然と過ごす。1週間ぐらいして軍医隊長が来て「黙って着いてこい」と言う。行くと「この男をラバウルに連れていかんといかんのだ、潜水艦に押し込んでやれ」 と罪人か何かを扱うように潜水艦に押し込まれた。


 2日後、ラバウルへ到着するが、潜水艦が入港してすぐ130機によるラバウルの大空襲があり改めて潜水。2時間ぐらいで再浮上すると港や街は火の海になっていた。この潜水艦は下船後帰りに湾口の中で沈められた。

海軍第8病院に入院

海軍第81警備隊に仮所属

 82警備隊の者はいないかと言われて行くと、同年兵が頭から上半身包帯でぐるぐる巻きになり、すでに亡くなっていた。同部隊なのだから遺体処理をするように言われたが、体力がなく手伝って貰って遺体を運び爆撃の合間合間に焼いた。
 敗戦までも収容所時代もサツマイモを作って2年を過ごした。

1946(昭和21)年11月 復員

 船に乗っている12日間の間に、12人が海に落とされたと聞いた。
 乗船した時「兵長殿日本に着いたらもうお別れだから」と個室が用意され、上げ膳据え膳で面倒をみてくれ便所に行くとき以外ほとんど出して貰えなかった。
 これは収容所で何度か喧嘩を止めたことがあったので、同じ場所にいると船から落とすうえで邪魔になると思い仕組まれたことだとあとで分かった。

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