インタビュー記録

1943(昭和18)年12月1日
  海軍甲種飛行予科練習生に志願(第13期・後期)

・松山海軍航空隊
 当時ぐれていて中学校4年生への進級が危なかった。落第では同級生にも格好悪いので「しめた」と思って予科練に志願。悪く言う人もいない。先生は「お前も行くか」と言ったがどう思ってたかは分からない。
 入隊日、徴兵の兵隊が「人の嫌がる軍隊に志願して来る馬鹿がいる」と噂しているのを聞いた。
 1年間は飛行機に乗る機会はない。実射訓練は1回だけ。バッター、対抗ビンタなど。

1944(昭和19)年末~1945(昭和20)年2月
  台湾・虎尾(こび)海軍航空隊 飛行練習生40期


 虎尾には40期が260名、全体では500名がいた。“赤とんぼ”(93式中間練習機)での訓練。
 虎尾には大日本製糖会社があり、ガソリンがなかったので砂糖から精製したアルコールで飛んでいた。アルコールの焼けた良い匂いがする。
 畑の女性をからかったらえらく言い返された。台湾人の男の子に聞いたら最悪の罵詈雑言だと言う。あとから考えたら彼女たちの畑を飛行場にしていた。石鹸や歯磨き粉の配給は日本人にはあったが台湾人には殆どなかったので仲良くなった女高生に持ち出してあげていた。
 空爆は殆ど連日に。南方から帰った兵隊は逃げ足が速く、遠くの空に機影が点に見えると居なくなっている。「ぼやぼやしていると死ぬるぞ」と言われた。飛行機の翼の下に隠れる者がいて「馬鹿か!」と言われていた。反対にその後内地に帰ると内地の兵隊はなんとのんびりしているかと思った。
 帽子を振っての特攻隊の見送りはよくやった。夜トイレの裏で出撃前夜に先輩が「お母さん」と叫んで泣いているのを見た。自分達はそこまで飛べるだけの訓練は積んでいなかったので(飛行時間7時間)、特攻に出る可能性は考えたことはなかった。
 実用機の希望調査があり、あまり死なないと思って戦闘機や爆撃機ではなく輸送部隊を希望したが、戦後調べたら一番死亡率が高かった。

1945(昭和20)年3月


 グラマンの攻撃が激しく訓練を続けられなくなり帰国することに。潜水艦攻撃に怯えながら帰国。
 門司港に帰国、アメーバ赤痢で小倉陸軍病院に。病室の陸軍の兵士達は満州から南方への移動中に輸送船が沈んで助けられたものが多くいた。予科練という事で看護婦には「予科練さん、お饅頭あげるよ」と大もてで、ご機嫌で入院していた。

1945(昭和20)年3月  岡崎海軍航空隊

 移動中、大阪が焼け野原で市内が見渡せた。「○○航空艦隊司令部」と看板が上がっていたが、空母も軍艦も無い陸上部隊なのに艦隊司令部で「これはダメだ」と思った。
 “どか練”(土方の予科練を指すスラング)、空襲のおとりにするベニヤの“零戦”の掩体壕を掘る仕事。
 食事は台湾時代は肉と豚と野菜の煮物で良かったが、岡崎では“神風汁”、塩汁に大根の葉が入っている。油を炊事場から“銀蠅”(泥棒の海軍隠語)、野菜を近所の農家からかっぱらい、天ぷらを作って振る舞ったら、作業しなくて良いから天ぷらを作ってとなった。要領は良かった。
 広島の原爆投下のうわさに動揺が広がった。広島出身の甲板練習生が「第1戦に出してくれ」と嘆願書を出したが、「今の作業はくだらないと思ってるのか」とこってりやられた。親兄弟がやられたら戦う意味がないじゃないか、米軍が上陸したら「彩雲」をかっぱらい満州へ逃げようなどと話し合い、厭戦気分が漂っていた。

1945(昭和20)年8月15日

 格納庫の解体作業をサボっていたら将校に見つかり、「今日は何の日だと思っているんだ。天皇陛下が直々に放送されるのにふざけて何だ、お前達は腕立て伏せで放送を聴け」と腕立て伏せで聴かされた。
 ぼそぼそと何を言ってるか分からず、「負けたと言ってる」と言う者と「最後まで戦えと言ってる」という者に分かれてしまった。「日本は神の国だから負ける訳がない」と言う人がいたら、古い下士官が「馬鹿を言うな。天皇だって飯も食えばうんちもする。子供も作る。神様のわけがないじゃないか。神の国だから助かるわけがないじゃないか」と怒鳴りつけた。
 “かしこくも”と聞くと直立不動の時代で、天皇についてそんな事を言うのを聞くのは初めてだからびっくりした。
 ひどいイジメ方をする下士官がいたが、練習機で上がって地面に突っ込み自殺をした。古い下士官達にはトラックに物資を積みさっさといなくなる者もいた。自分も飛行靴ぐらい履いて帰ろうと思ったが殆どなくなっていた。一つ持って帰ったが…。

同年8月22日 復員

 予科練出身者は“やくざ”の様に見られていたので苦労をした同期は多い。
 元の中学校の3年生で志願したので、「もういっぺん入れろ」と行くと、飛行靴を履いてキセルをポケットに入れ、3~4人、学校が荒れると困ると思ったのだろう。「お国のために行け行けと言って帰って来たら入れないのか」と言うと「勘弁してくれ、卒業証書は出しますから」で終わりになった。

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