インタビュー記録

1941(昭和16)年5月1日 横須賀海兵団に入団


どうせ徴兵されるのであればと志願。陸戦隊の落下傘兵のテストを受けるように言われる。くるくる回ってまっすぐ歩く、目隠しをして時計の針がどこから聞こえるかをテストされる。実は落下傘兵にあまりなりたくなかったので、教官に「聞こえる方向はどちらか?」聞かれて、反対の方向をわざと答えたら、「聞こえているではないか!」と殴られた。
 

1941(昭和16)年8月15日 横須賀鎮守府第一特別陸戦隊に配置


 館山航空隊へ 体操をひたすらやらされた。やわらかい地面ほど怪我をする。人間の格好をしたダミーを落として、落下傘が開くかのテスト。自分で傘をたたむ。不安で飯が食えない。

同年10月1日 木更津航空隊で飛行訓練を開始、


飛行機を飛び出す訓練は、すごい風圧で怖くて飯が通らなかった。けが人は絶えないし、降下訓練でパラシュートの紐が絡まって、海面に落ちて2、3人死ぬような訓練もあった。 訓練中に滑走路に落ちそうになった。パラシュートの操縦がなかなかできない。畑の中に落ちて足を折った。めり込むから折れる。

同年11月19日 飛行訓練終了飛行特兵を命じられる

同年11月26日 新田丸で台湾に向け出港


極秘行動であり、行き先はまったく告げられなかった。

同年12月1日 台湾航空基地に上陸

同年12月20日 台湾高尾港で興津丸に乗船

同年12月25日 フィリピン・ダバオ港に激戦後上陸


セレベス島メナドに落下傘降下することが任務と分かる。当初、小林農園に降下が決定したが、連合国軍のスパイに降下計画が漏れたことが分かったので、急遽ランゴアン飛行場降下が決まる。

1942(昭和17)年1月11日 ダバオ発 セレベス島メナドに落下傘降下


日本軍史上初の落下傘降下 降下地点までの飛行計画が、スコールに見舞われたために時間を大幅に超えてしまった。これが原因となり同士討ち、友軍機からの誤射で4機編隊の1号機がガソリンが漏れ引火爆発して炎上、墜落。海上からの対空砲火も味方の船からのものだった。海岸には、味方が上陸している様がよく見えた。  ブザーが鳴って扉が開く、ものすごい砲弾音がした。手榴弾を下に投げながら降下。降下中は、体の自由がきかない。ランゴアン飛行場からも激しい砲火、「落下傘の紐が弾に当たってちぎれてしまう」 着地成功。降下地点には空挺対策の竹やりがあり、運悪く降下すると田楽刺しになる。空挺兵の数名は、これで戦死した。20数名戦死。  降下したらすぐに敵も退却。人と梱包を別々に降下させるので、重火器を取る前にやられることもあった。拳銃と手榴弾で攻撃をする。軽機関銃の助手をしていた。 原住民からは、伝説にあった東の空からふってきて助けてくれる「白馬の天使」として歓迎される。戦死者の墓も作ってくれた。

1942(昭和17)年5月27日 連合艦隊司令長官山本 五十六から感状授与


同年7月20日 艦艇作戦 フロ-レス島エンデーに敵前上陸 現地の地竜がいて、天皇陛下の献上品として連れて返った。

同年10月12日 浅間丸でフロ-レス島を出港

同年10月23日 ジャワ島を経由し、長崎に上陸

同年12月22日 館山海軍砲術学校普通科練習生


1943(昭和18)年2月5日 土浦海軍航空隊に訓練で落下傘降下 アッツ島救援のうわさ 応援隊として選抜、防寒着が配布されるので「これは間違いない」と思っていた

1943(昭和18)年9月18日 アッツ島玉砕で救援中止 待機 同日、夢城丸でサイパン島へ


サイパン、テニアンの陣地構築に携わる 連合国のサイパンへの侵攻が近づくと、引き上げる民間人の乗った船が沖合に行くと煙を出して沈んでしまう。連合国の潜水艦に囲まれている。出るに出られなくなっていた。やがて、飛行機も飛んできて銃撃を受けだす。 トーチカを作ったが、まだ大砲がつかない。途中で船が沈む。偵察機がくるようになってから、たえずサイレンがなっていた。 チャムロ族は協力的 灯台に24ミリ機関砲が3門来てその射手だった。パイロットは大勢いたが、飛行機がない。飛行機が届かない。

1944(昭和19)年6月13日から14日 米軍の大艦隊を地平線でみる


サイパン、テニアンの陣地構築に携わる 味方艦隊が来たと喜んでいたら、連合国だった。 やがて、20~30機の艦載機が飛んできて銃撃、これは敵だと気づいて対空砲で撃ちかえす。30機のうち3、4機しか落とせなかった。落ちたパイロットを米軍が水上艇で救出しているのを見て、「米軍は兵士をきちんと助けるんだ」と妙に感心した。連合国の飛行機から花束のついている手紙が落ちてきた。一緒に日本軍陣地の詳細な航空写真がついていた。「これだけ分かっているぞ」との米軍の意思表示と思った。

同年6月15日 米軍上陸


米軍が上陸するらしい、米軍の艦砲射撃は島を揺るがすものだった。その間隙を縫って米軍上陸。洞窟が多いので、隠れる。 夜襲をかけることが命令。部隊長より「敵が上陸した。これから夜襲を敢行する。合言葉は山と川、また味方の識別として白襷をして、弾も少なく身を軽くして突撃する」。ヤンキーはバターくさい。すぐにわかる。米軍から言わせると「日本兵は味噌くさい」。100発くらいを両肩からかけて、準備した。 遊郭街が近くにあった。そこらの民間人が逃げているのをみた。南ガラパン小学校の焼け跡に800名くらい夜まで待機。 唐島部隊が先頭を切って夕方集合。出発、後ろの小隊が来ない。真っ暗になった。艦砲射撃でやられていた。匍匐前進。高射砲陣地は最初にたたかれた。砲だけがさびしそうに立っていた。 夜に攻撃をかけようとするが、沖合いの艦船から照明弾がひっきりなしに上げられ、昼間のようになってなかなか進めない。照明弾が自分に当たりそうになったので、よけると近くの高射砲の穴に落ちた。シューと音がするのでよく見ると、戦死者の腹からガスが噴出している音だった。すぐに穴から這い出した。 結局、米軍陣地に到着するころには夜があけてしまい、米兵の歩き周る姿も見られた。突撃ラッパがなった。着剣して突撃を敢行。曳航弾がひゅんひゅんとんでくる。運よく途中で作りかけのトーチカにころげ落ちてしまった。トーチカは未完成。天井を見ると、砲弾の破裂でやられたのか、人の肉片がべっとりと天井についていた。  這いだしてくると、米軍のM3戦車が目の前におり、陸軍の兵士と亀の子地雷を3人で戦車に付けたが、塗料が厚いためつかず、磁石の用をなさず目の前に落ちて、爆発。2人は爆発に巻き込まれ戦死。生井さんは破片を眉間と足に受けて負傷する。拳銃を持っていた、弾が落ちた、知らずに自決しようとして頭に打ったが、弾がないので命拾い。分解して、砂が一杯で打てなくなる。分解したが、すぐ動かなくなる。  気を失う。陸軍の野戦病院に担ぎ込まれ、出血がひどく、のどが渇く。水を飲みたかったが、軍医に「水を飲むと死ぬ」と言われて我慢した。かわりに汁無しのうどんを食わせてくれた。一晩休む。 負傷が治ってお昼出て、自分の隊に戻りたくて、銃を杖にして山伝いに歩きだした。 隊の洞窟に着いたが、負傷兵が多くて入れない。 病院からトラックで移動中に電探射撃を受ける。音で反応して撃ってくる。途中まで行って、トラックを降りて裏山に後退。夜にも攻撃があってとても寝てられない。 移動中の洞窟、のぞくと、深い穴。鍾乳洞が下がっている。日本兵もいる。民間人もいる。負傷者が溢れている。将校から「今晩11時に突撃をするから恥じない死に方をするように。負傷兵は自決、家庭あるものは奥さんも子供も殺せ」との命令。青酸カリ2つをもたされた。将校に軍属らしき人が軍刀を借りる、さっきまで子供の声がしたが、しなくなる。「女房、子供を処分しました」と報告してきた。看護婦がきて、将校に「傷痍軍人と一緒に死なせてくれ」、将校がよかろうということで一緒に外にでる。中で手榴弾で自殺も始まる。 やがて、あちこちで手榴弾による自決が始まった。その破片が飛んでくるので急いで外へ出た。出たところで、右足をひざから下棒で縛って、俺はもう駄目と言っている。もし、帰国できたら死に方を伝えてくれとの伝言。分かれて手榴弾で自殺。 突撃のための集合地に集まると、女学生が白服で南方特有の柔らかい木にナイフを付けて先頭に立っていた。ガラパン町へ向かっていったが、途中で待ち伏せ、猛烈な銃撃にあい、山のように死体が積みあがる(ガラパン町への移動は米軍のビラによる情報操作だったことがあとでわかる)。 道路は危ない。海岸線伝いに移動。陸側から脱出する人はほとんど生き残らない。夜光虫が多くて、移動が丸見え。浅瀬から突破する人間は、海の夜光虫が体についてしまって逆に米軍に狙われた。敵からいい的になってしまった。撃たれたが、命に別状なし。途中きれいな着物を着た10歳くらいの女の子が可哀想に死んでいた。 前進すると敵がいた。とっさに蛸壺に入る。敵は避難民に気をとられて気づかず、上を通過。前に向かって銃を撃っている。もし見つかったらやられる。緊張。覚悟を決める。敵兵は気づかずに前進。汗がドバッとでる。  なんとかその場を脱出したが、負傷した足はいかんともしがたく。休息。ひざから下が傷だらけ、負傷した傷に蛆が沸いて、傷を這い回る。とってもいい気持ち。ハエになってまた卵を産み付ける。それを繰り返すと乾燥してきて、傷が癒えた。山の中を5ヶ月這い回った。「私にとっては氏(うじ)神様でした」 アメーバー赤痢でほとんどの人が死んだ。生井さんはかかったが一ヶ月で治った。1週間くらい眠らなくても大丈夫。その代わり転ぶと寝てしまう。山へ入れば、死人の山。白い蛆がわいている。死体に蛆はたかるが、生きている人に蛆はたからないので、寝て起きると蛆がよらないところが人型になる。

約1年半のジャングル生活

1946(昭和21)年12月 復員


帰国したら、自分の葬式が終わっていた。自分の墓もあった。戻ってから掘り起こした。中は赤字で名誉の戦死という紙と写真。他は何もなくて、空っぽ。 国内の様子は変わっていた。子供が街で流行歌を歌っていてびっくりした。

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