インタビュー記録

小学校を卒業した後、高松商業に入学

  • 1941(昭和16)年3月 高松商業を卒業後、「ジャパン・ツーリスト・ビューロ(日本旅行協会。現在のJTB)」に入社。北京にある満州支部華北出張所に配属される。
  • 入社当時、すでに両親も亡くなっていて、兄がいたが、外地行きに反対することはなかった。周りの雰囲気が「外地にいけいけ」という感じだった。
  • 瀋陽で3カ月の研修を受けた後、北京に戻り業務に当たる。
  • 乗車券を売ったり旅行の手続きをする仕事をしていた。
  • 出張所は、北京の大きな繁華街、王府井(わんふーちん)の通りにあった。
  • 出張所には日本人の従業員が50人くらい、中国人の従業員が百人くらいいて、お互いの仲は良かった。
  • 給料も良かった。当時、5年制中学校を出て就職した人の給料は公定価格が40円くらいで、大卒が60円くらいだったが、中国に行くと戦時手当てが30円くらいでた。このことも入社した理由の一つ。
  • 客には日本人も中国人もいたし、軍人もいた。中には女優の李香蘭も自分で買いにきた。
  • 当時は日本の鉄道省、満鉄、鮮鉄(朝鮮鉄道局)、華北交通(満鉄のグループ会社で、華北の鉄道
  • バスの運行を担う国策企業)の4つの交通機関がつながっていて、北京から東京までの切符を買うことができた。
  • 華北交通、満鉄、朝鮮鉄道局、鉄道省の全経路を使う切符を「華満局省」と呼んでいた。
  • しばしば共産八路軍の襲撃があったが、鉄道が不通になることはなかった。襲われても結構すぐ復旧していた。
  • 北京飯店(フランス系のホテル)でよく部屋を借りて会議をやった。



  • 北京は住みよいところ。黄砂で黄色くなってしまうこともあるが、森の都でいいところ。
  • そのころも「北京の秋は世界一」なんて言われていた。世界のことは知らなかったが、それを信じてしまうくらい良い所だった。
  • 北京には日本人が十万人くらい住んでいて、居留民団があり、役所がちゃんと機能していた。女学校、国民学校、日本の高級料亭、キャバレーもあった。
  • この時は会社の独身寮に住んでいた。1月の食費は30円。寮の食堂に払うと、毎日3食食べられた。家族持ちには社宅が与えられていた。
  • 休みの日には近郊の観光地に行ったり、中華料理を食べに行ったりと青春時代を満喫していた。
  • すでに中国との戦争は続いていたが、特に中国人との問題もなく仲良くやっていた。
  • 戦況が悪くなって来ても、悪い話は聞かなかった。
  • 自分にとって北京にいた3年間は最高によかった。

1941(昭和16)年12月8日、日米開戦

  • 当日すぐ知った。正直面白かった。北京には各国がそれぞれ領事館などを置く区域(”こうみんこう”という)を持っていた。開戦によりアメリカ
  • イギリスのこうした区域に日本軍が行き、海兵隊を降参させ接収した。8日に接収するところを見にいったが、痛快な気持ちだった。この時は周りの人々も盛り上がっていた。

1943(昭和18)年 北京で徴兵検査を受けて甲種合格だった

  • 当時はジャワなどの南方に人気があった。北京で現地入隊すると、そのまま北支軍に入隊するが、内地に行って入隊すると南方へ行けると聞いた。
  • 「軍隊生活知らないか、知らなきゃ私が教えましょう、春や3月に検査を受け、4月5月は早過ぎて、6・7月は梅雨の頃、8月9月はいつのまに、10・11・12月が終わって、あくれば1月10日には、旗や幟に騙されて、ついた所が1連隊。」なんていう歌詞の兵隊の歌があった。

1944(昭和19)年1月 野戦重砲兵第9連隊(満州929部隊)に現役入隊

  • 「1月5日に九州の門司にある小学校に集合」という連絡を受ける。門司に行き、軍服などの支給を受け、引率されて関釜連絡船にのり、朝鮮から鉄道を北上。
  • 4、5日して、満州東寧にある野戦重砲兵第9連隊(満州929部隊)第1大隊第3中隊第4班に現役入隊。

  • この部隊は4年式15糎榴弾砲を装備していた。1個中隊にそれが4門あり、連隊には6個中隊で合計24門あった。
  • 1個中隊には1班から4班まであり、1班は観測・通信、2班から4班までは戦砲隊だった。この部隊には日本全国から兵が集められていた。
  • 砲は馬で引っ張る輓馬式なので、馬の世話に苦労した。誰も馬の世話をしたことがなかった。一つの班に43頭の馬がいた。朝昼夕夜と1日4回厩に行く。厩に行くとまず馬を引きずり出して水を飲ませる。水を飲んでいる時は、馬ののどに手をあてて、1飲み1合と換算してごくんごくん飲んでいる回数を数えて記録した。「春風15回、秋月20回」と全部記録する。水のみが悪いとおかしくなる。
  • 馬が夜苦しみ出すと、夜中でも「全員起床。4班全員起きろ」。そして厩に行く。馬はよく疝痛(便秘)をおこした。それで手当てをする。馬を木の枠に入れて動かないようにして、お湯を沸かして塩を入れたのを、ホースを使って浣腸する。浣腸をした後、ベテランの兵隊が上半身裸になって、腕を馬の肛門に突っ込んでかき出して摘便する。他の兵隊は馬の腹を交代で藁でこする。そして馬の調子が良くなったら解散。馬は運動不足だと調子を悪くした。

  • 私的制裁は禁止されていたが普通に行われていた。長時間捧げ銃をやらされたり、自転車こぎ、高い所に登ってセミの真似、1人がミスをすると連帯責任で全員ビンタ、失敗したときに各班を回って「私はこういう失敗をしました。深く反省いたします」と言わせられる、というような私的制裁は毎日やらされた。
  • 物を盗まれたら、「取られたお前が悪い。取り返せ。」という社会だった。ペチカに使う、薪や石炭をよく盗んできた。見つからなければいい。
  • 気の弱い薄弱な人は耐えられなくて首つり自殺や脱走をした。3中隊からは出なかった。
  • 班長の軍曹よりも、その下の兵長や上等兵の3
  • 4年兵がもっと厳しかった。

  • 頑張り屋だったので1番優秀な2番砲手(照準)になった。3番砲手が発射担当。
  • 4年式15榴は、砲架車と砲身車に分かれている。砲を移動する時は2つをくっつける。そのくっつけるときに、いいタイミングで手を離さないと指を飛ばされる。仲間が実際に指を飛ばされ、大変恐い作業だった。
  • 砲担当者と馬担当者に分かれていて、馬を担当する者はほとんど砲のことを知らなかった。馬を扱うか砲を扱うかは、入隊時に中隊の上層部が決めていたらしい。
  • 馬で引っ張る時は3列で引っ張り、前馬、中馬、後馬と言い、後馬が1番大事で、ベテランが乗った。
  • 砲兵隊にも歩兵銃があり、少し射撃訓練もした。しかし5発撃って、1発も的にあたらなかった。小銃の射撃は上手くなかった。後にやってきたソ連兵は、72発のマンドリンを使って射撃がうまかった。日本兵は白兵戦の時に銃剣で突くときは突くだけだが、ソ連兵は銃剣で突いた後に1発引き金を引いて確実に倒すように訓練されていると、後にソ連兵から直接聞いた。

  • 1期の検閲が終わった後に、幹部候補生の試験を受けて合格。甲種幹部候補生になる。3中隊から4、5人候補者が出た。
  • ところが、幹部候補生のために「今のうちにやっとけ。」と人一倍私的制裁を受けた。そのために足を怪我し、予備士官学校に行けずに残留することになった。

  • 東寧は立派な街だった。治安も良かった。にぎやかでもないけど安定していた。
  • 古兵は外出日には外出するが、自分達は年次が浅いので外出はできなかった。
  • ただ、東寧の陸軍病院にはよく行っていて、今でも当時の医師や看護婦の顔をはっきり思い出せる。病院の前で亡くなった兵隊を火葬にしたこともあった。

1944(昭和19)年2月 第2大隊がサイパンへ移動する

【参考】黒木弘景少佐以下の黒木大隊。同年3月19日サイパン島上陸。その後玉砕。

1945(昭和20)年3月 野戦重砲兵第9連隊は本土防衛のために茨城県那珂市瓜連に移動、大屋さんは東寧に残留

【参考】野戦重砲兵第9連隊(幡第929部隊)は1945(昭和20)年3月15日、東部軍(のちの第12方面軍)へ転出。同年3月20日東寧出発、4月8日に瓜連へ。

  • この時、3中隊の残留責任者になったので、内地には行かずに東寧に残ることになった。

1945(昭和20)年5月 残留隊は野砲隊(128師団砲兵隊、第340部隊)に編成

【参考】128師団砲兵隊(満第340部隊)は、昭和20年1月6日に編成が下令され、同年4月10日に、南鮮に転出した120師団砲兵隊の残置者と野戦重砲兵第9連隊よりの転入者をもって東寧で編成完結。同地の警備にあたる。7月10日に128師団砲兵隊は野砲兵第128連隊となり、主力は間島省(現在の吉林省)に移駐するが、東寧には残置部隊があった。

  • この部隊は90式野砲を装備。このころになると、経験の浅い召集兵が沢山入って来て、まとめるのに苦労した。
  • 内務班長になり、陣地構築作業をしていた。
  • 重砲から75ミリの野砲になったので、大分楽になった。

1945(昭和20)年8月

  • ある日、老黒山(現東寧県老黒山鎮?)で挺身隊を編成するので、兵十名を連れて出張せよとの命令を受ける。

1945(昭和20)年8月9日夜

  • 老黒山に着いた。国境を見るとソ連側がサーチライトを照らしている。「おかしいな」と思っていると、翌朝「敵が入ってきたから教育取り止め。原隊へ戻れ。」という命令を受けた。
  • それから3日3晩歩き続けた。その時に邦人が引き揚げるのを見た。松葉づえをついた老人が、よたよた歩いていて、お婆さんがよりそって支えている。この光景が今でも忘れられない。「神も仏もないもんだ。」と思った。
  • 引き揚げ者を襲う中国人もいたし、守ってくれる中国人もいた。

1945(昭和20)年8月15日 終戦は聞かず、知らなかった

1945(昭和20)年8月17日

  • 本隊に追いつき、東寧から東京城(現:黒竜江省牡丹江市寧安市東京城鎮)の間にある1本道の高台の所に砲2門を置いて、中隊長以下20人ぐらいで布陣した。するとその1本道を軽戦車を先頭にソ連兵を載せたトラックが進んできた。どきどきした。逃げるわけにはいかないし、度胸はあったので鉄帽はかぶらずタオルで鉢巻きして戦闘に臨んだ。地形が有利だったので、戦いも有利に進められた。戦車1台とトラック3、4台に砲弾が命中。ソ連軍は後退した。
  • 翌日見に行って見ると、キャタピラが外れて地面に伸びている軽戦車が1台、トラックが1台置き去りになっている。トラックの荷台にはソ連兵が2人死んでいた。そのポケットを探ると家族の写真が出てきた。それはちょっと胸にくるものがあった。「むこうもこっちもおなじだなあ」と思った。
  • その時は「勝った勝った」となっていたが、翌日日本が負けたことを知った。

1945(昭和20)年8月20日ごろ 東京城でソ連軍管理下に入り武装解除

  • 部隊の馬は全部満人にあげた。
  • 多くの日本人が集結していて、柵で囲った収容所が作られていた。兵士と在留邦人の収容所は分けられていて、夜になると在留邦人の収容所の方から女性の悲鳴が聞こえる。ソ連兵の悪いのが女性を徴発に来ていた。聞いていられない。
  • 感心したのは、朝鮮人の慰安婦がソ連兵が女性の徴発にきた時に「あなたひっこんでなさい。私商売だからいいわよ。」と、自ら日本女性の身代わりになっていたこと。実際に見た。
  • その後東京城から、約1週間かけて牡丹江まで歩かさせられた。水も食料も支給されず、弱い者は行き倒れになった。朝になったら倒れている。
  • ある時行軍中に雨が降って来た。ソ連兵の警戒兵が「止まれ」と命令を出したので雨の中身動き一つできなくなった。つくづく捕虜というものを感じた。
  • 食糧がないので、小休止の命令がかかるたびに高粱畑やトウモロコシ畑に入って作物をとってきて焼いて食べた。たまらないのは現地の農民だった。
  • 1945(昭和20)年9月ごろ 牡丹江の東の掖河(えきが)に着いた。2、3日して「東京ダモイ」と言われて貨車に乗せられた。ところが、進行方向の東に太陽が沈んでいて、列車は北の方に向かっていた。

コムソモリスク収容所(ハバロフスク地方第18収容地区)へ
(現ハバロフスク地方コムソモリスク・ナ・アムーレ/Комсомольск-на-Амуре)

  • ここはハバロフスク、ウラジオストックに次ぐ第3の極東の町で、人口約30万位。
  • 最初は第4収容所に入れられ、後に第5、第2と移された。
  • 零下3
  • 40度位になった。東寧も零下30度までさがったが、それより寒く感じた。
  • 食事は高粱のおかゆに、おかずはニシンの塩漬け。食べられたもんじゃないが、それでも食べるしかない。水も悪いからおなかを壊して、赤痢になってしまう。
  • 飢えと寒さと重労働の3重苦に、そのほかに伝染病がはやった。
  • 1度赤痢になって血便が出た。その時断食せずに、ふてぶてしくちゃんとご飯を食べたら治ってしまった。弱い人はおなかを壊して亡くなる。
  • 病気になると病院に入れられ、みんなと離れ離れになってしまう。それがいやでみんながんばる。

  • 作業にはノルマがあった。あったかい溶鉱炉で耐火レンガを作る作業は楽々100%を越えるが、外で建築物の基礎掘りをする作業は本当につらい。1日掘ってもほとんど掘れない。
  • 1番ひどかったのが人が死んだ時。死体を橇で運んで埋めに行くが、ほとんど掘ることができないので、松の葉っぱとか白樺の葉っぱをかけて置いておく。しかし、それは結局オオカミか山犬の餌になってしまう。火葬できなかった。
  • 火力発電所も作らされたが、2008年にシベリアに慰霊に行った時に今も稼働していて懐かしかった。

  • 服装はソ連から支給された。綿入れの厚い綿入れの着ものをきて、靴もフェルト製のものだった。ロシア人は物資がないためか靴下を履かないで、代わりに布を巻きつけていた。
  • 1週間に1回くらい町の大きな浴場に行って、全部脱いで裸になって、着ていたものは全部熱蒸気で消毒。
  • マホルカという刻み煙草を古新聞紙に包んで吸った。古新聞はこれ以外にトイレにも使った。

  • 15人か20人で作業に行く時、ソ連の警戒兵が1人つく。それが毎日なので顔見知りになってしまう。仲良くなったソ連兵は作業場に行くと、捕虜に監督を任せて、ストーブのある暖かい部屋で寝てしまう。
  • ソ連兵ともいろいろ話をした。中には小学校の先生をしていたインテリの兵隊もいた。そしてソ連の事情が良くわかった。
  • ソ連の役人は嫌いだけど、民衆は非常にいい人が多い。第1にソ連は多民族国家なので人種差別がない。
  • アムール
  • ガラシャという工場にも行ったが、そこは工場長から従業員まで好人物ばかり。本当に懐かしい。
  • ロシア人は歌が好き。女性労働者が4
  • 5人集まると「カチューシャ」を歌いはじめる。
  • 町へ行って道路を掘って舗装していたら、雨が降ってきて作業が中止になった。雨宿りにアパートに入ると広間があって、そこで子供達が10~15
  • 6人が輪になって、年長の子が指揮をしてロシア民謡を歌っていた。その場に一緒にいた女性労働者も歌いはじめる。ロシア人の音楽の才能は大したものだった。

  • 収容所から逃げ出そうとする人もいたが、絶対無理。
  • 気の弱い人は作業中に電動のこぎりで首を切って自殺した。
  • 作業場に行く時は5列になっていく。4列だとソ連兵は掛け算ができないので数えられなかった。はじめのころ、5列の外側にいた人が転んだのをソ連兵が脱走兵と見て銃殺した。そういうことがあったので、みんな列の内側に入ろうとした。

  • 収容所に入れられた当初は、まだ軍隊の制度が残っていて、階級によって待遇も違ったが、2年目あたりに第2収容所に移ってから民主化運動が始まって待遇が良くなった。
  • 民主化運動では将校がつるし上げられた。有名なのは関東軍参謀の大佐だった草地貞吾。舞台上に座らせて、運動の中心の者が「お前はこうだ」と言い、見ている者が「そうだ、そうだ」とやる。
  • 【※関東軍主任作戦参謀だった草地貞吾大佐は、戦後約11年間シベリアに抑留され、1948年1月16日から3月8日までコムソモリスク第5分所に入所していた。帰国後シベリアでの体験を書いた著書『地獄遍路』でこの時の事を回想している。】

  • 共産主義の教育もあった。以前から共産主義思想を持っていた人が頭角を現して壇上で教える。「ソビエト共産党の歴史」という分厚い立派な本を教材に使っていた。
  • 中には帰国後共産党に入って天皇制を打倒しようとした人もいたが、我々はダモイための手段としてスターリン万歳を叫んだ。芯から信じていたわけではないので、帰国したとたんにさようなら。けれど、むこうの言っていることが全部間違っているわけではなかった。正しいもっともなことも言っていた。

  • 食事も2年目になると良くなり米もでた。ロシア人は米の価値がよくわからないらしく、こちらとしては正月に米を出してくれればいいのに、毎日米がでて、正月になると粟がでる、なんていうことがあった。
  • 最後の方には食券で食事をするようになり、甘味品も1日砂糖が18グラムつくようになった。

  • 兵隊前は大工だったり、左官屋だったり、時計屋だったり、コックをしていたとか、いろいろな人がいたので、いろいろなものができた。技術屋は楽をしていた。
  • 1番楽をしていたのは絵描き。部屋の中でスターリンやレーニンの肖像画を書いて居ればいい。大変だったのは技術も何もない私達。
  • 技術屋は帰り際に、ソ連側から女性と家を世話するからに残らないかと誘われていた。

  • ノモンハン事件の時の捕虜がいて、普通に住んでいた。
  • シベリヤにいるときは、とにかく病気をせずに帰ろうという気持ち。
  • 日本人は結構良く働いた。
  • 演芸隊も編成された。器用なものが舞台から、ちょんまげなどの小道具を作る。役者のなかには、女性の格好をさせるとほんとうに女性にみえる人もいた。
  • 演芸隊の中に戦前の2枚目スターだった滝口新太郎がいた。

1948(昭和23)年7月 突然ダモイが告げられた

  • その時いた第2収容所は、作業もやるし、民主化運動もやるし、反動的なことは言わないので点数が高かったらしく、誰も残されたりしないで全員が帰れることになった。
  • 収容所から駅まで行進していると、今まで一緒に働いていた顔見知りの大工さんや職人が、手を振って歌を歌い、中には涙を流して見送ってくれた。
  • コムソモリスクからナホトカに行き、4、5日とどまった。
  • 船が来るまえにシャワールームで体を洗うために飯盒1杯の水をもらった。
  • やってきた船は「恵山丸」(日本郵船所属、2AT型戦時標準船、6891トン)。船に乗ってから船員に「日本では煙草の値段はいくらか」なんて聞いたりした。
  • 船の中で食事の配給係の責任者をやった。日本海の荒波で多くの者が船酔いになったが、配給係をやり遂げようとしたためか船酔いにはならなかった。

1948(昭和23)年7月31日 舞鶴に上陸

  • 「岸壁の母」という歌があるが、舞鶴には引き揚げ船がつく岸壁なんかない。船は沖に泊まって、はしけで上陸する。上陸してすぐ引揚援護局に行って、千円か2千円もらった。それから郷里の香川県に帰った。
  • 入隊前にJTBに籍を置いたままだったので復職は簡単にできて、就職に困ることはなかった。
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