インタビュー記録

1941(昭和16)年5月 徴兵検査で甲種合格

 徴兵として海軍に入団することになる。
 同年11月 両親の希望もあり結婚。19歳の新妻を置いて入団に。

1942(昭和17)年1月 横須賀海兵団に海軍整備兵として入団

 整備兵の同期生は2638名。所属した分隊は213名。分隊は13班にわかれ新兵教育が始まる。

同年4月 新兵教育が終了

 成績が良く、空母「赤城」乗組みを命じられる。

1942(昭和17)年5月 横須賀港で空母赤城に乗艦

 飛行機は九州の基地にあって一機もなく、乗員の数もまだ少なかった。
 須藤さんたち新兵は、艦内乗員教育を受けたが、いたるところにビール瓶や缶詰が散らばっており、いれずみをした先輩もいて、薄気味悪い物々しさを感じた。

同年5月下旬 横須賀港を出発して、呉の柱島沖に停泊

 ここで飛行機搭乗員が全員帰艦し、赤城8分隊飛行班に配属、零戦の飛行作業に従事する。

同年5月27日 柱島を出発

 2日後に「ミッドウェー沖に進出して、作戦に従事」する旨が上司から伝えられたが、出発前からミッドウェー島に上陸作戦を行うという噂が兵隊たちにも知れ渡っていた。
 術科学校に行っていない最下級の兵隊(当時、三等整備兵曹)だったので、飛行甲板上での車輪(チョーク)止め係。作業は単純だが、ものすごい風圧の中を動かなければならないので、危険度は一番高い持ち場だった。

同年6月5日 ミッドウェー海戦

 早朝に友永大尉率いる第1次攻撃隊を送り出した後、敵機の空襲を受け、迎撃に出た零戦の着艦、給油、発艦の繰り返しで多忙を極める。中には被弾した燃料タンクから、油がもれたままで発艦するものもあるほど。
 敵機来襲で多忙中、兵装転換(陸用爆弾→艦船用爆弾、魚雷)を知らされて何が何だかわからないような状況になる。直接命令を受けたわけでなく、兵隊同士のやりとりで知った。
 記憶では、赤城の左方にいた飛龍に、次々と敵機の垂直爆撃が行われ、水柱で飛龍が見えなくなったほどだった。急に黒煙が上がり、飛龍がやられたと思ったが、黒煙をはきながら全速力で敵攻撃を回避しながら、赤城の前方を横切っていった。(〈註〉飛龍はこの時点では被弾していないので煙突から出ていた排煙だったのか?)
 赤城に対しては敵機が機銃掃射しながら襲い掛かり、爆音と対空砲火の轟音で何も聞こえない状況の中、物凄い爆音がした。艦橋近くのエレベータ附近に被弾し、中部エレベータが前方に吹き飛んできた。
 艦内は大火災となり、消火活動が始まったが、それと並行して不時着したパイロットの救出作業を命じられた。「とにかく味方のパイロットを助けろ!」ということで、爆風で吹き飛ばされた水兵も助けを求めていたが、それは無視してパイロット救助のみに専念した。中には敵機、アメリカのパイロットが漂流していたのも見たが、それも無視した。
 艦内の酒保にある可燃物を処分せよという命令を受ける。真っ暗闇の艦内に入り、酒保に入ったが、突然の爆発で命からがら前甲板まで避難した。7名の兵隊と一緒に酒保に行ったが、その後、その7名は行方不明。

 しばらくすると、前部錨甲板に集合せよという命令があり、そこに移動すると、艦長訓示があった。左腕を包帯で吊り下げた青木艦長が退艦命令と短い訓示を行い、タバコをゆっくり吸った姿が忘れられない。
 いよいよ退艦ということなのだが、退艦も階級順に上位の者から行うということで、夕闇が迫ると階級なんか無視して、我先にと飛び込む者が続出した。須藤さんは命令を守ろうと思っていたが、まだまだ三等兵も大勢いるし、「あとは来ないよ」という声もするし、ぼやぼやしていたら取り残されると思い、内火艇に飛び降りた。須藤さんの後からも飛び降りる人がいて、定員になった内火艇は赤城を離れ、駆逐艦目指して走っていった。途中、何人か海に落ちたが、そんなのをかまっている余裕などなかった。
 駆逐艦「嵐」に移乗した後、疲労のため寝ていたら、夜明け頃に起こされ、何事かと思ったら、「嵐」の近くで「赤城」が真っ赤に燃え続けているのを見てびっくりした。てっきり全速力で内地に向かっているとばかり思っていた。
 「魚雷を発射して沈没させてから帰るので、赤城乗員は沈没する時敬礼するよう」と言われ、赤城に魚雷が命中し沈没していく様子を敬礼して見送る。

 その後、「嵐」から戦艦「陸奥」、軽巡「長良」と便乗して内地に帰艦。九州の鹿屋飛行場の一角に移ったが、1ヶ月以上隔離生活が続いたので閉口した。

1942(昭和17)年8月下旬

 大分県佐伯湾より空母「翔鶴」に乗組み、ソロモン方面の作戦に従事。

同年10月 普通科整備術練習生としてトッラック島より内地帰還

1943(昭和18)年6月 鹿島航空隊配属

同年11月頃 高等科整備術練習生
卒業後、筑波航空隊、松島航空隊などに配属

1945(昭和20)年5月 筑波基地で特攻機の整備を担当する

 予備学生出身の若い少尉などを見送る。

1945(昭和20)年8月15日 敗戦

 玉音放送は農家のラジオで聞いた。
 見送った特攻機のことが思い起こされて、「今頃何だ」「こんなにならないうちに言えばよいではないか。それを知らずに今日死んで行った友に、何と言い訳できるだろう」「軍部も上部も信用できない」と思い、今まで厳しい軍規で守られていたものが、一気に崩れ落ちいくのが、はっきりわかった。

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