インタビュー記録

兄弟が6人、軍国主義で教育勅語を読みあげていた


子供に死というのは人生の花と教えられる  毎日言われているうちに戦争は怖くなくなっていった  今のいう高等学校に行きたかったが貧農のためかなわなかった  いたしかたなく週2回の軍事教錬だけの青年学校に行った

1941(昭和16)年12月8日 ハワイ真珠湾攻撃をラジオで知った


朝から晩まで軍艦マーチがラジオで鳴っていた  自分が16歳の時村の先輩が出征してのぼりをたてて家の前を通った  その先輩は戦死した
 

1944(昭和19)年 徴兵検査


いよいよ敵の逆襲をうけ繰上げで19歳と20歳が徴兵検査となった  自分は甲種合格といわれた。自慢の気持ちだったが親は喜んでくれなかった。  叔父はフィリピンで戦死していた。自分も死は意識していた。  その年の12月に「昭和20年1月12日、仙台第22部隊に入隊すべし」ときた。   農家だから色々仕事があって11日の日に当時のお祝いというか、お別れの会が近所の人でもよおされた。  3人入隊したがそのころはのぼりもなく歩いて行って万歳をもらって、さようならと言った。母親はただ「光雄 生きて帰って来いよ」と言った。自分は黙々として出て行った。世の見納めかと思って振り返りながえら「死なないで返してくれ」と祈って家を見た。

1945(昭和20)年1月12日 現役、仙台第22部隊に仮入隊


古年兵が我々は虎要員(第19師団)だと言う、意味は朝鮮ということだ。 一週間いて仙台駅前集合、沢山の部隊で人がいっぱいだった。父も母も来てくれた。なけなしの米でもちをついてくれた。 軍用列車でカーテンをおろしていた。博多に着き、一晩宿にとまった。大豆めしは食えたものじゃなかったから家からのあんもちを食べようとしたが、腐っていて涙を流しながら捨てた。 釜山まで玄界灘の荒波を船で渡った。みな激しく舟酔いした。釜山は1月なので寒く皆すべって転んでいた  何日かかけて羅南の部隊へ、第3機関銃中隊となった。  それからは毎日訓練、軍隊は人間の住むところじゃない。朝から晩までピリピリして演習の合間に上官の洗濯をしていた。日本の国の横暴としては19才20才の現地の何十人の若者が強制徴用で一時的に我々の部隊に入ってくる。毎日何の為に来てるのかなと思っていた。朝鮮語は禁止されていて仲間同士で話していたら上官にぶっとばされていた。一週間位してある日昼の演習が終って帰ってきたらからっぽだった。聞くことは出来なかった。それが何回も繰り返された。現地の若者で厳しさに耐えかねて逃亡した者もいたが捕まって戻されていた。南蛮というとうがらしやにんにくが食料としてあった。あとから聞いたがそれが日本に送られて炭鉱や日本の飛行場建設などの重労働に使われたという。食べ物も満足に与えず何人か命も亡くしたと思う。 日本が苦しめていたと思い今も侘び心をもつ。 部隊編成して普通は検閲6ヶ月だが4ヶ月に詰められてその間に自分達は北へ。南に行った人は沖縄とか南方に行ったと思う。満州で警備の命令を受けて30名の分遣隊に選ばれ、先に発つことを名誉に感じて喜こんだ。 食糧や武器弾薬等備蓄した山の頂上まで運搬に現地人を使った。毛布、米、味噌2年分を運んだ。30mあった。何故と思ったが自分達は休む時テントを貼るが、彼等は牛と一緒にゴロ寝だった。現地人が帰るとき紙切れである軍票で払おうとして、日本の金を渡さなかった。おそらく一文も報酬を払わないで、ただで返していた。日本円で支払いになり、最後は打ち付けるの暴挙 外出許可の出たとき民家に行ってたばこ・靴下を交換したら、“けらんけらん”というタマゴをゆでてもらったり大豆をゆでてもらったりした。酒も現地の結婚式の時などにもらった。人のつながりがあり今でも目にうかぶ。

いよいよ戦争にはいる


山の中腹で陣地構築、分遣隊ではハンマーで岩山を掘ったりしていた。毎日機銃掃射をうけたが、本隊が遠く連絡もつかなかった。 8月12日頃それで山を降り満州から朝鮮に渡るためゴムの船で豆満江(とまんこう)を渡り南陽(なんよう)に。ソ連が満州にどんどん入ってくる、弾の音がしていた。   15日頃川原に陣取って機関銃を構えて敵を待っていたら日本の兵隊が逃げてきた。部隊本部をみると大きな白旗があがっていて、降参したことを知り張り詰めた気持ちがガタガタになった。  朝鮮と満州の川にコンクリ-の橋がある。そこに軍使の日本の将校が正装で馬7頭で白旗を掲げてパカパカ走ってきた。そのとき敵弾が頭の上をとんできたので反撃しようとしたら小隊長が攻撃するのをとめた。また弾が飛んできた。その後日本の乗用車が白旗あげて走ってきた。弾は止んだ。   これで日本に帰れると思った。 戦争は終ったと思ったが部隊と合流するまでどうするかと思った。分遣隊の30名の班長は朝鮮人だった。自分は慕っていた。連れて行ってと頼んだ。  川原で野戦重砲隊の駐屯舎があった。酒飲んで騒いでいたので何故と思ったが、騒ぎがおさまったら自爆がはじまった。弾頭と火薬をつかっていた。自分で火薬をいれて炸裂させていた。それが1発2発じゃなかった。幹部が何故止めなかったかと思った。死にきれなかった人がかわいそうだった。  短い時間の中で色々あった。 現地の人が赤旗をもって青龍刀を抜き身で団体で騒いで来た。我々は隠れた。一生懸命一緒に歩き苦労をともにした軍馬が2頭いたが、身を隠す為捨てる命令が来た。夏でコーリャンが生えてるところに放したら普段は喜んで食べるのに、草も食べずにトコトコ付いて来る。何度も繰り返し身を隠して帰ってきた。胸あつく馬との別れを今でも覚えている。 身を隠すうち分遣隊の30人がバラバラになり4~5人になった。我々は初年兵で勝手に朝鮮人の班長についていった。連れて行ってくれと頼んだが無言だった。気持ちの良い班長で慕っていた。何時間か歩いて休んだ時色々語った。  彼は背嚢からチョゴリを出して着た。いつ調達したのかとびっくりした。そしてどれだけ日本の軍隊に苦しめられたか語りはじめた。35年も日本の国に支配された植民地の苦労を語りだした。初年兵で何もわからずにいて怖くなった。  朝鮮は独立すると彼の口からきいてびっくりした。こらえていたのが分かった。    我々はそこで無言で別れた。日本の本隊を見つけてほっとした。隠れて怖れていたから安心した。 8月18日頃、武装解除。大事にしていた武器を踏みつけた。 何日か収容され、今度は「ヤポンスキー東京、ダモイ」という言葉が出て、「200キロ行軍に耐えられないものは申し出ろ」と言ったが出る者はいなかった。  日本に帰るために千人の大隊を組んで行軍しているうちに、開拓団の難民の姿多くもあった。 42歳までの人は召集しているから若い男がいない、老人と女子供が多い。子供を背中と前に抱えていたが、更に荷物を持って、もう歩けなくなった。子供は泣き叫びながら歩いていた。子供を置いていった者もいた、それが残留孤児となった。守る余裕が兵隊にもなかった。現地の人が拾ってくれた。   何百km歩いたかわからない。大豆を生で食べたりした。日本に帰りたかった。やっと汽車に乗り、帰れると中が喜びに湧いていたが、貨車が北に向かってることが磁石により分かりシーンとなった。

1945(昭和20)年10月頃 シベリア抑留  ハバロフスク地区ホルモリン406収容所


シベリアに行くことがわかりガッカリした。シベリア抑留された。日本人の兵隊だらけだった。その数60万。  伐採など色々な仕事をした。零下30度は暖かいと言っていた。 食べ物がなかった。生の馬鈴薯2個で一食だった。皆倒れていた。重労働でスープ少しだけだった。

1949(昭和24)年8月復員


帰る命令を受けナホトカに行き心配したが牧舎に寝て名前を呼ばれるのを待った。  呼ばれてから駆け足でタラップのぼって船にのった。「スターリンのバカヤロー」とみんなで怒鳴った。現地ではスターリンに忠誠を誓うと紙に書かされていた ●最後まで平和を守るために戦争はだめと一生懸命いいつづけたい  今も子供たちに会に行って話している 世界の皆さんとケンカしちゃだめだ  仲良くすることだと いつか白髪じいちゃんがああいう事言っていたと思い出してくれたらいい


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