インタビュー記録

1935(昭和10)年 満州国皇帝溥儀が日本を公式訪問


満州国の皇帝が始めて東京に来たんですね。日本の天皇陛下とお付き合いすると、昭和10年です。私は小学校の6年生でした。私が住んでいる麻布小学校で、満州国皇帝が小学校見学の候補になったんですね。麻布に6つの小学校があって、地区の6年生が皆集まって、満州国の歌を中国語で猛練習したんですね。それが初めて、満州を意識したんですね。

1943(昭和18)年12月1日 慶応大学在学中に学徒出陣、特別操縦見習士官2期生に


昭和16年12月に(太平洋戦争が)始まったんです。そのとき、大学の1年でした。それで、戦争が始まって、予科3年と学部3年で6年あったんですね。 予科1年を1年、予科2年を9月まで半年、10月から予科3年なんです。 学徒出陣は予科3年の時です。満20歳に達していない人は行ってませんよ。ところが満20歳というのが、微妙ですね。11月28日、3日間の差なんですね。12月以降に生まれている人は引っかからなかった。 最初は、入営したところは甲府の歩兵連隊です。甲府で初年兵教育を受けたわけです。軍隊の幹部候補生は中学を卒業すると、試験を受ける資格ができます。中学1年生から軍事教練を受けているんです。週2時間は軍事教練の時間です。1年から5年までやると資格ができます。 12月1日に歩兵連隊に入って、2月になって、幹部候補生の試験があって、合格しました。まあ、学徒出陣にいったやつはみんな資格者ですから。その後、甲種と乙種の幹部候補生があるんです。甲種は将官、乙種は下士官です。私は飛行機にいったんです。飛行機はとたんに見習い下士官になるんです。それが2月10日ですよ。

1944(昭和19)年4月~7月


宇都宮飛行場で赤とんぼ(95式一型練習機)での訓練
 

1944(昭和19)年8月~12月


台湾台中飛行場で高等練習機での訓練

1944(昭和19)年12月


富士飛行場で隼(一式戦闘機)での訓練。1945(昭和20)年 2月 特攻の希望調査。 飛行機は上空を飛んでいるときは気楽なの。着陸が怖い、その次が離陸。最初は教官と一緒に離着陸の訓練だけをするんです。飛行場の上空を一周して、4分間です。それを1時間で15回かな。10時間やると150回ですね。180回から200回飛んでは降りる訓練をするんです。 それをやって、今度は一人でやるんですね。単独飛行ですね。単独飛行のときは教官は乗っていないので、すごく怖いですね。着陸が怖いですね。私は着陸を失敗したことは幸いないけど、失敗するとひっくり返ったりと、何十人といました。軽症ですけど。離着陸の訓練ばっかりです。 安心してできると、次は特殊飛行ですね。宙返りとか横転とか反転とか。特殊飛行は実は簡単なんです。操作が決まっているから。背面飛行もやりますね。たいがいは赤とんぼでやってしまいます。 高等練習機では、特殊飛行のほかに戦闘訓練をします。いやこれが、ものすごくて、特殊飛行とは比べ物にならないです。敵機が下から来て、攻撃して、すぐに上がって、二回、三回とやるんです。攻撃して、上がるとき、目から火花が飛び散る、遠心力がすごくかかる、脳が抵抗できないの。特殊飛行はそんなことはないんだけど、攻撃の訓練は大変ですよ。これが平和な世の中だったら、何でこんな訓練するんだと思いますよ。 特攻隊を始めて知ったのは19年10月にアメリカがフィリピンのレイテ島を攻略するんです。レイテ島にマッカーサーが上陸して、その時初めて出来たんです。飛行機乗りは全員が特攻隊になるんだな、と考えを持ちましたよ。フィリピンの特攻が続いているなか、12月に内地に戻ったんですね。 次は沖縄にアメリカがやってくる、そのときは特攻機ですね。そういう覚悟でした。当然だと思っていました。 最初に特攻機20年2月に、これから爆弾を抱いて、敵艦に突っ込む特攻隊になるんだ、君たちはそれを希望するのか書けと、熱望と希望と希望せずと三種類あるんですね。熱望と希望の差は微妙ですね。熱望は俺がやらなかったら誰がやるんだ、ですね。希望は何か?希望は当時の日本人は皆ね、日本が負けそうだから、もう特攻精神、体当たりしかないよ、という気持ちですね。飛行機乗りだけでなくて、日本人が皆思っていました。 では、希望せずは?希望せずを書いた人は、これは誰が書いたかそのときは判らないですね。100人くらい仲間がいましたが、希望せずを書いた人が判ったのは、戦後の話ですね。ある程度、考えようによっては、希望せずに書いた人は偉い人だと思いますね。ただね、希望せずを書いた人は判らないけど、本人からは聞かないけど、書いたらしい人は、地上勤務になるんですね。よその飛行場に行けと言われた人、この人たちは希望せずと書いたんだろうねと思った。100人中10人くらいですかね。90人は希望か熱望を書いたんですね。特攻隊の編成が始まりますね。

1945(昭和20)年5月 第144振武隊に配属

1945(昭和20)年6月3日か4日 万世(ばんせい)飛行場(鹿児島県)に


5月の末かと思いますが、訓練を受けていて、静岡の富士飛行場を出発して、大阪で1泊、熊本県の菊池飛行場について、3泊くらいしましたかね。

1945(昭和20)年6月8日 6機に出撃命令


第1回の命令は6月8日ですね。そのときは、私の飛行機がエンジンの故障で飛べなかった。それで私は出撃しなくてよかった。 注:松浦、加藤の両機はエンジン不調のため出発できず、和泉、薄井両機も離陸直後にエンジン不調で引き返す。中島、岡田の二機だけが出撃、2人は沖縄洋上で戦死。

1945(昭和20)年6月19日 4機に出撃命令


6月19日が第二回目の命令。そのとき、一緒に飛んだのが、私以外に3機です。それで離陸して、しばらくすると、1機が故障して引返したの(注:加藤機)。だから3機で飛んだの。非常に出発するときは天気が良かったけど、30分くらいで嵐になったの。所謂6月は梅雨どきですからね。もう、豪雨ですよ。沖縄まで2時間半かかるんですけど、2時間飛んだ時に、1機が墜落したの、海面に(注:薄井機)。それで、隊長(注:和泉機)がもうこの悪天候では沖縄にいけない、そう決心して引返したんですよ。2機になって引き返したの。 特攻している時は何も考えていないんです。歌は歌いましたよ。当時飛行機乗りは航空糧食、所謂ビタミンとか入った飴みたいな菓子をかじったり、歌を歌っていました。機上無線は日本にはない。 一番神経を使うのは、操縦なんです。海上20メートルなので、下手すると海上にぶつかってしまう。神経を使ったのはそこです。訓練で2時間も海上20メートルを飛ぶのをしたことはないです。初めての経験です。それに精一杯です。2時間前には帝国軍人だったので、海上に墜落しても構わないな、と全然怖くなかったですよ。それが、帝国軍人なんですね。 ただし、2時間経って、一機が墜落した後、戻るときは恐怖の連続でした。要するに、帝国軍人という言葉は、なったり、なくなったり、様々なんですね。いかにあの戦争当時であっても、帝国軍人でずっといれるかは、そんなことはないんです。 (基地で特攻が決まったらどのように過ごしたか?)酒もなかったですね。食うものもろくなものがなかったです。日本中が食うものがないんだから、何も贅沢はいえないですよ。沖縄本島周辺にいるのは敵艦がいるのはわかっているから、私たちの場合は嵐だったので、海上20メートルを飛んでいるから、沖縄本島にぶつかったかも知れない。悪天候で水平線が見えないからね。 私は特攻は希望と書きました。誰が何を書いたかはわからないです。希望せずと書いた人は地上勤務、転勤でわかるわけです。あえて、仲間内では話題にしないです。聞かれても答えないですね。特攻隊同士で、特攻に関する話はしないです。特攻することは当然のことだから、特攻のことでどういう気持ちかなどの話はしないです。新聞記者が来たとしても、特攻に対する覚悟、信念など聞かれても話さないですね。靖国神社の話も全然しないですよ。 特攻隊の編成はね、一隊が6名なの。その前は12名なの。飛行機が不足したことも関係があるよ。何でこんな少ない飛行機で行くんだろう。もっと何十機で飛んでいけば、いくらかでも攻撃が成功すると思っていたんですよ。とにかく、飛行機が故障が多いんです。数がそろわない。その時点で、こんな特攻作戦では駄目だな、という気持ちはありましたね。 実は私がお話したいことは、特攻隊員は、よく戦後特攻隊だったんだぞ、と言う人がいるんです。その人は何千人といるんです。何千人もいる中で、実際に特攻機地に行って生き残った人はおそらく数十人しかいないですよ。皆特攻機地に行く前に終戦なんです。 だからね、特攻隊と口にする人と、特攻隊で戦死した人、生き残った人は全然違うんです。線の両側にはっきりと分かれるんです。生き残った人が、死んだ人のことを考えても、絶対に気持ちを理解することは出来ないですよ。特攻隊で死んだ人を慰霊する気持ちはありますよ。だけど、特攻隊で亡くなった人に頭を下げても、特攻死した人が最後にどんな気持ちで敵艦に突っ込んだかは絶対判らない。 私は後、30分のところで引き返して生き残ったの。私は責任があるな、特攻隊で戦死した人の話を探求しなくてはいけない。それが私の60年間の与えられた任務だろうと。不可能であっても解明しなくてはいけない、それが本を書いた理由なんです。これが遺書(自分の本)で、特攻隊で戦死した人の気持ちを解明しなくてはいけない。大体、これで私がどうやら自分の務めを果たすことができたのではないかと思っています。 それには、戦争そのものを解明すればいいだと気付いたわけです。戦争にはいろんな死に方があるわけです。原爆、日本各地の空襲、一瞬の死ですね。一瞬の死のときに、死ぬときに何を考えるかはわからないけど、重軽傷を負って、それこそ一時間後、10時間後、一週間後に死ぬ人もいるわけです。そういうことを考えているわけです。南方の戦線で大勢死にましたね。その人たちは銃砲弾にあたって、死んだ人は2割くらいです。後は飢え死に、輸送船が沈没、溺死ですよ。餓死と溺死が8割以上を占めている。餓死と水死した人はどういう気持ちで死んだのか。餓死は一ヶ月も二ヶ月も苦しんで死ぬわけです。水死も泳ぎが上手いと何時間後に死ぬわけです。どういう気持ちで死んだのか? 実は特攻隊がどういう気持ちで死んだかの、解明した点なんです。確かに戦争中の日本人は皆天皇陛下の臣民なんですね。天皇陛下を守るために死ぬんですね。一般の市民、銃後の国民は働いたわけです。だけど、果たして、帝国軍人であり続けたのか?ということなんです。それがね。特攻隊の場合は、飛行場を飛び立って、2時間半で戦死するわけです。2時間半という間は健康なんですね。飛行場を飛び立つときは帝国軍人なんです。その間も帝国軍人なんです。だけど、最後の一瞬は帝国軍人であり続けたのか? 餓死の場合はね、一月も二月も飢えに苦しんでいる。その時は帝国軍人ですよ。死ぬまで後、2時間前までになったときに、完全に食べ物がない時に、果たして最後まで帝国軍人であったのだろうか、という事なんですね。 私は、結論を帝国軍人ではなくなっている、帝国軍人というものに怒りをもって死んだと思っています。そこで消滅するんです。最後は怒りです。この怒りをもって死んだことが、靖国問題にもかかってくるわけです。今の政治化は戦争を知らないし、知ろうともしない。どうやって日本人は死んだのか探求せずに、靖国にお参りすると、言っているわけですね。 俺は大日本帝国に殺されたんだ。皆怒っているんです。その怒りを知らずに靖国神社をお参りするのは間違ってますね。戦没者の怒りを勉強しないと駄目だ。これが特攻隊の問題で、慰霊祭の問題ですね。 戦争体験者はたくさんいらっしゃいますが、私みたいな話をする人はいないでしょう?私の仲間でもね、特攻基地までいったことがない仲間は今でも何百人もいるんです。一杯飲んでドンちゃん騒ぎするだけですよ。もちろん戦死者に対して、黙祷はしますが、後は飲んで食ってのドンちゃん騒ぎだけです。現在まで生き残れた喜びだけなんです。だから私は十年ほど前からその会にも出なくなりましたけどね。 万世飛行場の生き残りである、隊長は戦後10年くらいでなくなったので、もう生き残りは私一人だけです。

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