インタビュー記録
1944(昭和19)年2月10日 現役兵として入営、24師団歩兵第89連隊
入隊したのは、昭和19年2月10日ごろ。自分の誕生日と同じはず。 帯広へ列車に乗るときは4-5人くらいいたのかな。帯広に行ったら、特別列車で移動した。たくさん見送りがいて、駅前が大変な騒ぎだった。旭川に移動。旭川では、流行病がはやっていて、兵舎に入れなかった。ぎっちり、それこそ横になるのがやっとの狭さだった。何日間かいた。その間、特別なことはなかった。椅子に座って巻脚絆を巻いていたら、いきなり殴られた。「初年兵のくせに椅子に座るとは何事か!」と怒られた。
1944(昭和19)年2月半ば 満州へ出発
特別列車に乗ったのが夜中だった。夜中の午前一時ごろ。雪は大してなかった。ちょうど旭川に線路があって、駅までずっとあった。線路を踏むと滑るんだよ。とにかく滑ってひっくり返る。裏日本をずっと行って、あちこちの駅に止まって国防婦人会の方々からお茶を貰った。絶対に話をしてはならない、と言われたので、婦人会の方に「おいしいかい?」と聞かれても御礼も出来なかった。申し訳なかった。 船で釜山に渡って、列車に乗って、東安に移動。何から始まったかは覚えていないが、とにかく兵隊だ、と絞られた。 満州での教育・訓練 馬を扱う中隊、連隊砲中隊。馬が何十頭いた。点呼が終ると毎日走って馬に寄って世話をした。馬に蹴られたりして苦労した。馬に引かされたり、人間が引いたりして、歩く演習を経験した。とにかく、戦車を撃つ訓練が厳しかった。弾をこめたり、照準をしたりといろんな役割があった。とにかく苦しいことばかりだった。 満州の平野で、開拓団が畑で仕事をしているのが見られた。それを見ると、非常に懐かしかった。一期の検疫が終って、おえらいさんがきて、戦車射撃の演習を見てもらったことがあった。褒められました。
1944(昭和19)年7月 師団に沖縄への動員令、満州を出発
ちょっと一休みしたかな、という時、7月に入った頃かね。もしかすると南方に行くかも?みたいなうわさが広まった。師団に動員令が出た。半そで、半ズボンが支給されて、やはり南方なんだなって思った。 いつ出発したかは覚えていない。有蓋貨車に載せられて、小銃も持たずに、背嚢を背負って移動した。時々は降りて体操したりした。仲間に、朝鮮出身の兵隊が一人いた。それは金田君。とても頭がよくて、体格がいい兵隊。中隊長が金田に「軍人の本分はなにか?」と聞かれ、「はい、天皇のために死ぬことです」と答えて、ほめられていた。 輸送船で九州へ。そして、旅館に宿泊。外に出ては駄目だ。民間人と話をしてはならないと厳命された。自分の持ち場が決められていなかったが、照準担当になんとなく決まった。これは大事なものだと教えられた。 輸送船、「暁空(ぎょうくう)丸」6千トン。そこに弾薬やら食料を積み込んだ。船倉に何段もベットを作って、横にならないと奥に入れない狭さで兵隊は詰め込まれた。ひとつの船に複数の兵科が入っていたんだね。沈められてもバラバラに運んだんだね。 分隊長が酒が好きでね。ビールをくすねて、持っていくと、「あんまりやらなくてもいいぞ」といいながら喜んでいた。甲板に砲をひとつ乗せていた。この砲は敵の潜水艦がきたら撃つんだ。
1944(昭和19)年8月1日に門司出航
かなり大きな船団だったね。船酔いして、げーげーしていた。飯があまって仕方なかった。とても食べるどころじゃなかった。
1944(昭和19)年8月5日 沖縄に到着、天願小学校に駐留へ
8月5日に目的地に到着。きれいな島で、緑があふれていて、赤い瓦屋根が見えて、竜宮城みたいだね、と戦友と話した。これが沖縄だった。 船から上がって、体中がおかしい。何かと思えば虱が大変。酷い目にあった。きれいにはできなくて、いつも悩まされた。那覇で何泊かした。今晩、目的地に行くぞと、命令が出たがどこに行くかは知らない。夜間行軍。そこで、一般小銃隊は大変。私は大砲だから、砲はトラックが運んでくれる。歩兵は小銃を持って、歩いて、大変だよ。前の者に遅れたら行き先はわからなくなるしね。夜中を過ぎると、遅れるのも出てたみたいね。夜中に休憩もしながら、行軍しながら寝るんだね。鉄兜を背嚢にしてるから、頭をぶつけることがあった。とにかく夜通し歩いて行った。 トーチカがずいぶん構築されているな、と気付いた。トーチカじゃなくて、沖縄独自のお墓だと後で分かった。具志川の天願小学校に駐留することになった。今晩は、連隊長が来る。夜来るからとお達しがあった。運悪く、私たちの部隊が衛兵をやることになった。歩哨の訓練を受けたことがないから、習ってない。立って黙っていて、えらい人きたら捧銃(ささげつつ)をすればいいと言われた。でも連隊長が来たときに、頭を下げたら(民間人かと思ったら)連隊長だった。捧銃しなかったので、連隊長が怒ってしまって、後どうなったか覚えていないけど、大変だった。 4-5日くらいして、ぼけっとしたら、分隊長が来て、「満山、なんだあのざまは?」にこっと笑っている。小突かれたくらいで、お咎めはなしだった。分隊長がなかなか酒は飲むけど、中隊では名前を売っていたので、そのお陰かなと思った。 すぐ近くに砲を隠すために、横穴を掘った。射撃演習をしたりしていた。8月ですかね。星ひとつが二つになったんですよ。陣地構築をあちこちですることになった。連隊の守備範囲も決まったらしいんです。 部落には小学校の校長先生もいて、部落で風呂があるのは小学校の校長先生家だけで、一回くらい御世話になった。いつもは海の水で汗を流していた。
1944(昭和19)年10月10日 大空襲
空が真っ黒になるくらいグラマンがきた。沖縄は滅茶苦茶にされた。食料も兵器も大損害。 港を守る陣地構築に従事した。 年が明けて、正月になって、敵はいつ来るかわからない中、演習に励んだ。具志川にいたころに、下士官候補生の教育を受けさせられた。正月過ぎてからは、早めに終らせて、自分の原隊に戻らされた。3-4名いたかな。自分の中隊に戻って壕堀をした。 昼だから、外に出ようか?と出たら。海に軍艦があふれていた。結局アメリカの艦隊がすぐ近くにきていたんですね。兵隊にはまったく知らされていなかった。 そして、艦砲射撃が始まった、こちらも実弾を射撃をすることになった。
1945(昭和20)年4月1日 米軍沖縄本島上陸
前線に行くように命令されたのは4月の27日くらいかな。 途中まで、砲をどこにすえつけるのかを視察しに行った。そしたら、私に拳銃が支給された。なんで、砲兵に拳銃なんだろう。4番砲手は照準で、最後まで砲を守る必要がないからと教えられた。嫌なものを持たされたな、と思っていた。本当は陣地を選別する権利は、小隊長にあったんです。でも私の上にきた小隊長は砲の打ち合わせも知らない。分隊長が責任を擦り付けられた。とにかく、砲の位置を決めた。 夜が明けて敵に見つかると大変なので、壕に隠れろということで、相棒と二人で壕の中にいた。疲れがでていた、とたんに眠たくなって寝てしまった。やがて目が覚めると、外ではサトウキビが植えてあったのだが、無くなっていた。これは大変と分隊長のところにいくと、分隊長は生き埋めになっていた。手で掘ったら、分隊長の頭で、冷たくなっていた。観測班長だとか幹部クラスが皆死んでしまった。誰かが中隊長を呼びにいった。 とにかく敵が憎かった「ちきしょう、ヤンキーぶっ殺してやる」とにかく射撃を始めて撃ちまくった。そうしている間に迫撃砲がきて、すごく撃って来た。砲の目の前で青光りしたと思ったら、ドーとなって、頭の中が真っ白になった。破片が目に入った。眼球が出ちゃった。後で教えてもらったけど、目が飛び出てたらしい。半分意識がなかった。 私を誰かが背負ってくれて、後方の医務室にいった。薬をぬって、包帯をまいて、治療らしいことはしてくれず、追い出された。腕を切ったり、足を切ったりしていて、女の子が運んで捨てている情景だった。中には、手榴弾で自決するのもいた。頭が痛くて、気が狂いそうだった。死ぬか生きるかの状況だった。
1945(昭和20)年5月中ごろ 病院が解散すると命令
5月4日に日本軍が総攻撃をやったんです。ところが米軍はまってましたとばかりと反撃して、主力はほぼ壊滅。 動けるものは、自分の部隊を探して退却しろ、動けないものは自決しろと言われた。自分で死ねない兵隊には、看護婦が毒薬を飲ませたり、下士官が銃で撃ち殺して歩いたと伝え聞いた。死んでも捕虜にはならない考えがあって、病院を解散して、とにかく重傷者を殺した。 死守陣地 死んでも陣地を守れという陣地。米軍から降参しろという勧告があった。断ると、米軍から激しい攻撃があって、毒薬弾を洞窟に撃ち込んだ。 私も負傷者は動くなと言われて、動けない負傷者は待機と言われて、だんだん体が動かなくなっていた。これは毒ガスで、死ぬんだな、と思った。怖くはなかった。 思い出したのは北海道の両親と兄弟だった。私はいつの間にか気絶してしまった。どれくらい経ったかわからないが、遠くかなたに白い雲がふわふわしていた。少しずつ見えてきた。目が覚めると、生きていた。手足は動かなかった。正気になってきた。周囲のうめき声も聞こえてきた。壕が爆破されて、土砂に埋まったもの、死にかけているものの声が聞こえた。 しばらくすると、中隊長が奥から出てきた。切り込み隊の命令がでた。私の親友の森が指名された「満山、俺は行ってくるから元気でな」と言われた。死にに行くようなことは私もわかった。 負傷兵に、「壕を出ろ」との命令だった。死守陣地だから、ここで一緒に死なせてくださいと懇願した兵士もいたが、上官は「命令だ」の一言で追い出した。 出て行っても真っ暗だし、全然わからない。音を出すと、すぐに機関銃が撃たれる。曳航弾がすごく飛んでくる。後方の洞窟に下がり、どんどん兵隊が死んでいく。家族の名前を言って、寝言を言って死んでいく。血だらけ、泥だらけで死んでいった。 生き残っているものだけが、4-5名残った。8月くらいかな。 その間に、お互いに負傷者同士で話し合った。大規模な戦闘が終了したとの噂があった。とにかく、生きるためには水と食料が必要と探した。 与座岳(よざだけ)の話だ。生きて日本軍は応援にきてくれる。頑張ろうと話しあった。
1945(昭和20)年10月 米軍の捕虜収容所へ
私は10年でも篭ってやろうと思っていた。ヤンキーがすごい騒いでいる時があった。それが8月15日なんだろうと思う。 それから10月に入ってきた。ある時、昼間寝ているときに、枕元で変な言葉が聞こえる。あれっと、気付くとアメリカ兵がすぐそばにいた。死んだ兵隊かと思ったのかね。血だらけ泥だらけだったからね。私はやられた、殺されると思って、恐怖を感じて、枕元にあった拳銃を撃った。米軍が一人倒れて、他は逃げ出した。不思議なことに、米軍が武装していないの。頭の中で、自動小銃が手に入ると思ったのに、あてが外れた。これはまずい。逃げた兵士が応援を呼んできて、殺されると思った。でも、何故かなかなかこない。出来るだけ殺してやろうと思っていた。 次の日かな。ヤンキーがきたんだね。ヤンキーが死んだ兵隊を担架に乗せて帰って行った。不思議だった。次の日に、「撃つなよ」と日本兵士が近づいてきた。その日本兵が「戦争は終わった」と言ってきた。びっくりした。信じられない。嘘で、この日本兵はスパイだと思った。説得されて、洞窟を出た。アメリカ兵がたくさんいて、中隊長のところに連れて行かれた。 中隊長が「先日死んでしまったアメリカ兵の時計を返して欲しい」と言ってきた。「これは記念品だから駄目だ」と言った。通訳が困った顔をして、後で詳しい話をするから腕時計を返して欲しいと言ってきた。そしたら、中隊長は「あんたたちは戦争終了を知らずに、米軍を撃った。米軍には絶対洞窟に入るなと厳命していた。それなのに、入って撃たれた。お前たちは戦争終わったのを知らなかったのでこちらにも非がある。だからこれは公式には何もなかったことにする」。といった。 もしかすると報復されると思ったが大丈夫だった。ジープで収容所に運ばれた。そこで他の日本人に聞いたら「日本軍は8月15日に降伏したんだ」と聞いた。それを聞いて、あの中隊長はなかなかの人物だな、と思った。